Time Traveller

Welcome to the Monologue of Woodpecker!

私のひとり言のページです。

My monologue Part 3




父と母の思い出


    私の父は2011年2月3日に90歳で、そして母は2017年3月5日に95歳で逝去しました。
ごく私的な内容ではありますが、葬儀での挨拶文によって、私の父と母の生き方についてご紹介したいと思います。

    父の思い出

    本日はご多忙の中、故筒木真一の葬儀にお集まり頂き、大変有難うございました。  ここで、貴重なお時間を頂いて恐縮ですが、最後のお別れに、父の思い出を紹介させて頂きたいと思います。

    筒木 真一は、大正10年1月7日に、岡崎市生平町の不退寺という浄土真宗のお寺で、藤井信道、藤井きみ の次男として生まれました。 結婚するまでの姓名は藤井真一でした。 生平の藤井家には4名の男子兄弟と1名の女子が生まれましたが、男子兄弟は全員、教員への道を進みました。

    父は生平小学校、河合中学、岡崎高校の前身である二中、岡崎師範学校で教育を受け、卒業後はまず男川小学校に赴任しました。 しかし、ちょうど第2次世界大戦のもっとも激しい時代に重なってしまったため、戦地に赴くことになりました。 父が戦っていたのは中国大陸全域でしたが、終戦直前に満州に移動となり、ハルピンで終戦を迎えたと聞いております。

    そこでソ連軍の進攻を阻止することを命ぜられたのだそうですが、抵抗空しく結局ソ連軍の捕虜となり、シベリヤ奥地へと移送されました。 大変苦しい抑留生活だったそうですが、幸い、生き長らえて日本に帰ることができました。 帰国後は再び岡崎市の教員となり、多数の小中学校で教鞭をとりました。

    1949年に筒木和子と結婚し、筒木の姓に変りました。 その後1951年に長男の潔、1953年に長女の栄子、1954年に次女の美知子が生まれました。 私たちが子どもの頃は葵中学校に勤務しておりましたが、その後、竜海中学校、根石小学校、大樹寺小学校、矢作西小学校、恵田小学校、男川小学校などに移り、教員生活の最初と最後を男川小学校で働いたことになります。

    父は教師としても父親としても大変厳しい人でした。 しかし、そういう厳しい先生が良かったといわれて、卒業後も何度もわが家を訪れてくださる教え子さんもいらっしゃいました。

    厳しいとはいいましたが、私どもも父に遊んでもらった楽しい思い出がたくさんあります。 小さい頃は、市電に乗せてもらい、岡崎駅に行って電車を見せてもらうのが楽しみでした。 少し大きくなってからは、自転車であちこちの川に釣りに連れて行ってくれました。釣りに行くまえにミミズを採集した覚えもあります。 家族では、夏休みや冬休み中名古屋の動物園やデパートに連れて行ってくれました。 冬は火鉢でおもちを焼いてくれたり、カルメ焼きを作ってくれたりしました。

    父は登山が好きで、夏休みには同僚の先生方と毎年登山に行っていました。写真も趣味で、登山中たくさんの写真を撮ってきて、自分で現像・プリントしていました。 母は登山中の父のことが心配で、帰ってくるまで心配し続けていました。 父は草花が好きで、庭中に色々な草花や木を植え、たくさんの鉢植えを世話していました。

    父のその他の趣味としては、俳句と絵があります。俳句は葵中学校に勤務していた頃から始め、松籟(しょうらい)句会という句会で長年研鑽を続けてきました。 水墨画もいろいろなものを描いて俳句などを添え、知人にもらってもらうのを喜びとしていました。 その他、戦争中に覚えた中国語に愛着を持ち、教員生活を退職後は、岡崎市の市民講座で長年中国語を教えてきました。中国人留学生さんのお世話もしていました。

    読書も趣味で、文学、美術、歴史、旅行などの本がたくさんありました。 子どもたちには難しすぎましたが、わからないなりに、そのおこぼれを読ませて頂きました。  また、旅行が好きで、退職後は母と一緒によく海外旅行に行っていました。 行き先は中国、モンゴル、カザフスタン、インド、パキスタン、エジプト、ロシア、フィンランド、タイなどさまざまでしたが、特に中国には何度も行っていました。

    母が15年ほど前に脳梗塞で入院したことがありますが、それ以降は、体を使う家事は全て父がやってきました。 このように父は多趣味で、みかけによらず行動的で、退職後の生活を楽しんでおりました。 一昨年は、長年にわたる教育への貢献に対し、天皇陛下から叙勲を頂くことができ、父も大変喜んでおりました。

    そんななか、去年の6月頃、背骨を圧迫骨折で悪くし、9月には医師の勧めもあって、共立病院さんに入院することになりました。  入院後の経過も良好で、食事も喜んで食べていると聞いておりましたので、この度2月3日の急な逝去には驚きましたが、きっと天の神様・仏様も、十分に頑張り続けた父を「ご苦労様」と言って天国に迎え入れてくださったものと思います。

    父は現職中も退職後も、教師としての自覚を高く持ち続け、教師として行動し続けた人だと思います。 父は、教師として、父として、夫として、大変立派な人だったと思います。 そのような父を誇りに思いつつ、父の冥福を祈りたいと思います。  本日ご多忙の中、葬儀にお集まり頂き、本当に有難うございました。(2011年2月5日 告別式での遺族代表挨拶)



    母の思い出

    皆さま、本日は大変お忙しい中、母、筒木和子の葬儀にお集まり頂き大変有難うございました。 母は3月5日の朝7時20分頃、私の妹たちとその家族たちに見守られて、大変安らかに天国へ旅立ったとのことです。私は、訃報を受けてからやっと帯広から駆けつけたという一番親不孝な息子でした。母には大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。

    母は3月4日の朝にも容態が悪くなり、妹たちとその家族が駆けつけて、声をかけたり賛美歌を聞かせたところ、心拍数や酸素濃度が回復し、皆に見守られていることを喜んでいるようであったと聞きました。本当に母らしい最期の日であったと思います。

    母は大正10年11時7日に、朝鮮の咸鏡南道咸興というところで生まれました。それは、母の父が食料検査官(政府が買入れるお米の等級を判定する仕事)として朝鮮総督府の下で働いていたためです。母の父は転勤が多かったため、朝鮮の主要な都市にはほとんど住んだことがあると言っていました。

    幸せであった朝鮮での生活も日本の敗戦によって終わりとなり、母は両親とともに日本に帰って来ました。それほどたやすい帰国ではなく、特に釜山港から出る帰国船がいつ出航するかわからないので、私の母だけが一時船を離れた間に帰国船が出航してしまい、母はその後に小さなボートに乗せてもらい帰国したとのことです。

    帰国後、再会することのできた母と母の両親は、本拠地であった安城市には戻らず、岡崎市六供町に住むことになりました。 帰国から父との結婚までの間に、母はキリスト教に出会い、1948年3月28日に岡崎教会で宮田熊治先生から洗礼を受けたそうです。

    父は浄土真宗のお寺の次男坊、母の従兄弟も浄土真宗のお寺の住職という環境の中で、日常生活の中では仏教の習慣を守りつつ、日曜日には可能なかぎり教会に通って自身の信仰を守るという大変困難な信仰生活を母は続けたことになります。

    母は大変信念の強い人でしたので、最後まで信仰を続けることができたのだろうと思います。また、歴代の岡崎教会の牧師様や信徒の皆様との深い交わりが母を支え続けて来たものと思います。大変有難うございました。

    母は常々、私が旅立つときは教会の皆様に見送られて旅立ちたいと申しておりました。 このように母の願いが実現し、皆様の暖かい祝福の中で母を見送ることができますことを、遺された家族一同大変うれしく思っている次第です。

    明日はまた午前11時からこの会堂で告別式を執り行ないますので、お時間の許す方は是非お越しいただけましたら有難く存じます。

    本日は大変有難うございました。(2017年3月6日 前夜式での遺族代表挨拶)


    Memorial address for my mother

    My mother passed away in the morning of March 5, 2017, watched by my sisters and their family in our home town, Okazaki. She had no pain, no illness, and just fulfilled her whole life at the age of 95.

    I was very sorry that I was not there, because I am living very far from my home city. I should satisfy with the memory of visiting her last month, and could sleep beside her in the previous night of the ceremony.

    My mother was a Christian since she was 26 years old, and until she died she remained so. Japan is a Buddhist country, and our every day life is influenced by the Buddhist custom. She was never against the Buddhism, and worshiped our ancestors in Buddhist style. However, she went to church every Sunday, until she became too weak, and could not go there by herself. Her friends in church often helped her to attend the Mass.

    Her funeral ceremony was held at the church where she was a member for 70 years. My mother, her friends in the church as well as my sisters and myself are happy that we could send her in the church.

    I believe that she arrived to the Heaven peacefully and met her husband there who passed away 6 years ago.

    —————————————————————————————————————

    Thank you for your warm words of condolences. On March 7, the Mass for sending my mother to Heaven was held at the Okazaki church. Then, there was also an incineration procedures, and a dinner party for the attendants of funeral ceremony. It was also a good chance of reunion for my close relatives. Though many handkerchiefs became wet, we thanked my mother for providing us the chance of meeting together.

    The Lord has arranged everything good and in order for my mother and her family.

            Funeral ceremony of my mother

            My father and mother's history

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Two roses


    In this autumn, I planted two new roses in my garden, which I found and bought at a shop in the conifer garden near my house.

    One pink colored variety was named “Knock out”, because this rose variety is very strong to plant disease and insects.

    Another yellow variety was named “Peace”, because it was named to celebrate the cease of World War II.

    By chance, North Korea shot a missile over Japan on the same day when I planted the “Peace” rose variety. I wished the world peace and hoped that the situation will not get worse.

    Around two weeks later, North Korea launched another missile again. Korean, Japanese, and American political leaders are very angry at North Korea.

    I wonder whether peace should come only after the war or not, or whether war will bring the peace or not. It is pity that mankind recognizes only the violence as the means for achieving the peace.

two roses

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人間の価値について


    このモノローグで、去年の今頃、金沢のお寺の前でみかけた「役に立たなくていいです」という掲示のことを紹介しました。役に立たなくていいです “You need not be useful."

    最近、このことに関連して、またいくつか感慨深い文章に遭遇しましたので、紹介したいと思います。

    まず第1は、「夜と霧」(みすず書房 1956年版および新版)の著者 V.E.フランクル氏が「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)という本の中で引用していたカントの言葉:

    「あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」

    第2は、V.E.フランクル氏自身が「それでも人生にイエスと言う」という本の中で述べていたいくつかの言葉:

    「愛されている人間は、役に立たなくてもかけがえがない。」、「役にたつということは人間存在を測ることができる唯一のものさしではない。」

    そして第3は、旧約聖書(新共同訳)の「知恵の書」(第1章14節)に書かれていた言葉:

    「生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られたものには価値がある。滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。義は不滅である。」

Colchicum

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国難選挙について思う。


    どうのこうの言いながら、「北朝鮮による挑発行為」を一番うまく利用しているのは自民党の安倍さんではないだろうか?「国難」などという第2次世界大戦前夜のような言葉を持ち出して国民を不安がらせ、この勢いで選挙で大勝して、森友学園問題も加計学園疑惑も帳消しにしよう。治安維持法まがいの特定秘密保護法案も4年前に成立させたことだし、安全保障関連法案(戦争法案)は一昨年(2015年)に通した。今年(2017年)の6月には「共謀罪」も成立させた。今度は憲法も改悪して、正々堂々の軍事大国を打ち立てようと目論んでいることでしょう。

    考えれば北朝鮮の金正恩もUSAのドナルド・トランプも同様にこの緊張した雰囲気をうまく利用して、自国の世論の引き締めと自分の政権の維持の手段としているように見えます。安倍氏も金正恩もドナルド・トランプも過激な国粋主義・軍国主義者ですし、3人の利害が一致しているとすれば、なにかこの3者の間に裏取引があるのではないかというようなことも勘ぐられます。実際、北朝鮮による2発のミサイルが津軽海峡の上空700kmを通過し襟裳岬の東方2000km付近の太平洋上に落下したことを見れば、この弾道が非常に注意深く選ばれたものであることがわかります。

    実際、さらに緊張関係が増した場合、誰が先制攻撃をしかけるにしても、その時は世界の破滅(少なくとも北朝鮮・韓国・日本を含む地域の破滅)は避けられないので、どんな馬鹿でもそう軽々しくは実力行使には出ないことと思います。ただ、お互いに脅しをかけたり不安をかきたてることに意義があるのです。しいて一番危険な人は誰かといえば、紛争該当地域から遠く離れた国に住み、自国の軍事力に絶大な自信を持ち、さらに極東の黄色人種の命などはどうなろうと構わない白人至上主義者ではないでしょうか。そして、日本の首相は無条件でアメリカの軍事行動を容認し、それに加担するでしょう。

    吉田・岸・佐藤・安倍その他日本の中枢権力を戦前から担ってきた一族は、戦後日本の主権をかえりみないで、密約によってアメリカ合衆国の軍事戦略に協力することによって、第2次世界大戦を推進した戦争責任を免罪された一族です。何かあれば一族ごとアメリカに守ってもらえることでしょう。真っ先にアメリカに避難可能な者ならば、国民を差し置いて何をしでかすことかわかりません。

    アメリカ合衆国が日本の主権を歯牙にもかけていないことは、つい先日の沖縄県高江村での米軍ヘリコプターの炎上墜落やこれも去年から今年にかけてしばしば起きたオスプレイの事故の後、事故原因の解明もなされぬままにすぐに訓練が再開されたことからも明らかでしょう。あるいは、安倍さんが「ボク、全然気にしていないから。」とトランプさんに伝えているのでしょうか?

    私たちもこのような流れにだまされ続けていると、被害者意識と優越国家意識をかきたてられ、日本の政治と経済を隠然かつ公然と支配する勢力に利用されて、理性も良識も忘れ、再び破滅への道をたどらなくてはならなくなるのではないでしょうか?

    安倍晋三氏が国会の解散を決断したのは、北朝鮮によるミサイル発射、民進党の山尾議員のスキャンダルなどを受けて、臨時国会での追求を回避し、選挙に勝って首相の椅子を確保し、悲願の「憲法改正」を実現するには千載一遇のチャンスだと判断したためでしょう。まるでギャンブラーです。このような状況のなかで2人目のギャンブラーが現れました。希望の党を立ち上げた小池百合子氏です。安倍氏による国会解散に対してはある程度の批判もあることから、この批判票を吸収して国政に対する自分の影響力を一気に高めようと考えたのでしょう。希望の党の立ち上げに呼応してさらに3人目のギャンブラーが現れました。民進党の代表になったばかりの前原誠司氏です。まったく独自の判断で希望の党との合流を決断してしまったのです。そのため、民進党は空中分解することとなりました。「党」の団結を守り、党固有の政策で国民の信を問うべき代表としてはありえない行いでした。これらの3人に「民主主義」、「民主的手続き」という意識がまったく欠如していることは明らかです。

    選挙公報が投票日の4日前にやっと届いたので読んでみました。希望の党の公約は2行だけでした。「守るべきはしっかり守る。変えるべきものは大胆に変える。」これだけしか書いてありませんでした。そして、民進党は何を書いているかなと思って探してみましたが、当然のことながらもう「民進党」の欄は存在していませんでした。旧民進党前原派は「希望の党」に合流したので、彼らの公約もこの2行のみということになります。この人たちは公約で何を守り、何を変えると言っているのだろうと考えさせられてしまいました。

    本音を隠した公約なので、何もわかりませんが、今までの言動からすれば、大企業の利益や政治家の利権はしっかり守り、日本の軍国化と改憲およびアメリカ合衆国への追随は大胆に行うということで、自民党の政策となんら変わるところはないのだろうと思います。

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忘れることに長けた国民。


    弥生人が日本列島に来る前に、8000年以上もの間、縄文人の文化が栄えていたこと。
    そしてその縄文人の血と文化と言葉が私たちに引き継がれていること。

    弥生人は中国や朝鮮から日本に渡ってきたこと。

    明治維新の前には平和な江戸時代が250年以上続いていたこと。

    被害も加害も含めて悲惨な戦争を起こし経験したこと。

    敗戦のその日まで、「鬼畜米英」と国中で叫んでいたこと。

    広島、長崎の原爆、第五福竜丸、東海村JCO臨界事故、福島第一原発の破壊と広範で深刻な放射能汚染。世界中で日本人ほど原子力の被害を被った国民はいないこと。

    足尾銅山、水俣、神通川流域で起こった銅、水銀、カドミウムによる人体被害。

    沖縄で軍用機の墜落事故や米軍関係者による性犯罪が絶え間なく起こっていること。

    政治家達による数かぎりない汚職と破廉恥行為。


    すべて綺麗さっぱり忘れてしまう。

    加害者の責任はすぐに忘れられて、被害を受けた者に対する風あたりの方が強くなる。

    神主がひと祓いすれば全てを忘れてしまうのか?

     あまつさえ、積極的に過去を否定し、過去を美化する政治家たちによって国が導かれようとしている。

     ジョージ・サンタヤーナ
    「過去を記憶できぬ者は、それを繰り返す運命にある。」
     ホロコーストの記憶 p.37

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岡崎市における「六」のついた地名について。


    私は今年(2017年、平成29年)の12月に66歳となります。
    「六」が並んだめでたい歳です。

    さて、「六」が並ぶということに関して、最近非常に興味深い情報をインターネットの記事で知ったのでご紹介します。

    私は、岡崎市の六供町で生まれました。岡崎市の北東の丘陵の上に位置する町です。六供町には小高い甲山があり、その中に岡崎城を鬼門の方向から鎮護する甲山寺があります。甲山の頂上にはサイレン・電波中継塔があり、夕方5時には子供達に帰宅の時間を知らせる「夕焼けこやけ」のメロディーが流されていました。私が子供の頃には、甲山の森の中にはお寺とサイレン塔と小さな遊び場があるだけでしたが、今では宅地開発されて多くの住宅が山の中にも建てられています。

    先日、岡崎城に見学に入りましたところ、岡崎城天守閣のシャチホコの瓦を焼いた瓦造りの名人は六供町に住んでいたと書いてありました。

    岡崎は「六」のついた地名の多いところです。

    私の妹は「六供町」に生まれて「六名」に嫁ぎました。そのご主人は、「六所神社」が鎮座する明大寺町で生まれました。「六名」は、六名、六名町、上六名町、六名本町、六名新町、六名東町、六名南町などの町から構成されています。

    私の父方の祖母は、岡崎市の南の幸田町にある「六栗町」のお寺で生まれました。

    他にも、「六美」、「六地蔵町」、「抱六岩(真伝町内)」などの町名があります。ただし、「六美」は岡崎市の南東、矢作川の南岸一帯の多数の町を含む地域の名称です。また、岡崎市と豊田市の境界付近の豊田市側には「六所山」があり、松平一族の発祥の地です。「六供町」のすぐ南にある亀井町、籠田町などの町名も「六」にちなんだものだそうです。亀の甲や籠の目も六角形をしています。

    これらのことに気づいた岡崎市在住の渡辺英治さん(本業は基礎生物学研究所の研究員)が、「岡崎の六並び〜地名の起源を推理〜」というブログを書いておられます (http://okazaki6.blogspot.jp)。


     渡辺英治さんはこれらの地点が直線状に分布していること、その直線を延ばすと伊勢神宮につながることを発見されました。

    また、全国で「六供町」という町名を探すと、長野県小諸市、群馬県前橋市、山形県寒河江市に「六供町」があり、他には見つからなかったそうです。そしてこれらの全国の「六供町」が、岡崎市で「六」のつく地点を結んだ際の、伊勢神宮から北東に延びる線上にほぼ分布しているそうです。「六供町」とは字がひとつ違っていますが、名古屋市名古屋城の西方約 1km に「六句町」、長野県大町市に「六九町」があるそうです。これらの町も大きくみれば伊勢神宮から北東に延びる線上に位置しています。

    渡辺英治さんは、岡崎周辺に多い「神明社」の分布との関連から、伊勢神宮に貢物を供えるための通り道だったのではないかと推察しておられます。

    垂仁天皇の第4皇女倭姫命が伊勢神宮の設立の地を求めてあちこち移り歩いたことが伝えられていますが(元伊勢)、伊勢神宮を現在の五十鈴川のほとりの地に確立したのは天武天皇です。天武天皇が壬申の乱において劣勢を跳ね返し勝利できたのは、東国の豪族特に尾張氏の助力を得られたためと言われています。東国といえば当時三河の国から東は全て夷の国であったので、伊勢神宮と東国を結びつけるラインが存在していて、それが六並びのラインと重なると考えることもできます。神明社という神社は伊勢神宮の分社のような神社といわれていますが、その神明社が岡崎付近に集中して存在しているのは興味深いことです。岡崎は東国からの貢物が集まる土地であり、また天皇家による東国支配の拠点の地としても重要だったのでしょう。

    また、私の姓「筒木」はかなり稀な姓ですが、筒木の姓を持つ家は愛知県安城市和泉村、滋賀県甲賀市水口町泉などと長野県松本市(旧南安曇郡)に隔離分布しています。これらは古代の安曇族が住んでいた土地です。愛知県の渥美半島という地名もかつてこの地に安曇一族が上陸したことを暗示しています。このような安曇一族の地名は六並びのラインともほぼ重なる分布を示しています。

    「六」のついた地名は非常に古い歴史を秘めていることがわかり、「六」にちなんだ地名が伊勢神宮につながる一直線上にならんでいるとは大変興味深いことと思いました。さらに伊勢神宮よりも古い歴史を持ち、縄文時代からの東夷の信仰を引き継ぐ「諏訪神社」との関連も解明してみたら面白いのではないかと思いました。

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古代アマゾン文明展を見て


    今年の11月3日に、上野の国立科学博物館を訪問し、「古代アンデス文明展」を見てきました。


    アンデス文明は、古代エジプト文明にも匹敵するBC3000年頃から始まり、時代と場所を移りつつ様々な文明が栄えてきたものであることを初めて知りました。そしてその文明の最後がインカ文明で、1572年に突然その文明は滅ぼされてしまいました。それはスペインによって征服されたためですが、スペイン人たちは古代アンデス文明の莫大な文物や宝物を全て破壊し、貴重な金製品は金塊につぶしてスペインに送ってしまいました。

    北アメリカのメキシコではアステカ文明およびマヤ文明も同じ頃にスペインによって滅ぼされています。ヨーロッパの他の国の探検隊が来ても同じことをしたことでしょうが、白人以外の文明やキリスト教以外の宗教を全て野蛮な文明や宗教とみなしてしまうおごりがもたらしたものと思います。

    さて、南北アメリカ大陸のネイティブアメリカンたちは、氷河時代の終わりにベーリンング海峡を渡ってアジアから北アメリカに渡った人たちです。最後の氷河時代の寒冷のピークが過ぎ去るのを待って、1万5000年ほど前にかなり短い期間の間に一度に移住したと説明してありました。日本人と先祖を同じくする人たちも含まれていたことでしょう。

    南アメリカにおけるアンデス文明は、アンデス山脈の西側の気候的にも厳しい砂漠地帯や山岳地帯からペルーとチリの太平洋沿岸にかけての地域で栄えてきました。沿岸地帯も広いものではなく砂漠が直接海に接しているような土地です。

    文明の発祥地というと肥沃な土地を想像してしまいますが、このような最も住みにくそうな土地で各種の文明が栄えて引き継がれてきたことに驚きを覚えました。困難な土地で生きていくためには、組織の力と集団の知恵が必要だったのでしょう。しかも、痩せた土地での生産を維持していくためには、土地を疲弊させない技術も確立して引き継いできたものと思います。太平洋沖合の島で産出した海鳥の糞グアノの肥料としての利用もそのような地力維持手段の一つでした。

    南北の古代アメリカ文明の中で、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、唐辛子、落花生、キヌアなどの重要な栽培植物も、このような困難な土地でネイティブアメリカンによって育種されてきました。(下の注参照)

    アンデス山脈の東側にはアマゾン川流域の広大な平野が広がり、土地も豊かだったことでしょう。もちろんこの地域に拡散していったネイティブアメリカンもいました。これらの人たちの中には、テラ・プレタという有機物や炭のすき込みによって肥沃度を持続させる農法を確立した人たちもいましたが、その社会は小さな部族単位にとどまり、大きな文明には発展しなかったものと考えられます。

注)
    南北アメリカ原産の作物を調べましたところ、上記の他にも、サツマイモ、ズッキーニ、ピーマン、カボチャ、インゲン豆、ヒマワリ、イチゴ、パイナップル、アセロラ、カカオ、アボカド、パッションフルーツ、グアバなどが挙げられていました。食物ではありませんがタバコも南米原産だそうです。南北アメリカ原産の作物がなかったら、私たちの現代の食生活は非常に乏しいものになりますね。

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シンポジウム「国際土壌の10年に向けて」での発表を終えて


    11月30日に、日本土壌肥料学会北海道支部のシンポジウムで発表をさせて頂きました。


    私のタイトルは「土の有機物研究に携わって」でしたが、シンポジウムのテーマは「国際土壌の10年に向けて」でした。このテーマが決まったのは講演の依頼を受けたあとだったので、自分の発表がテーマにふさわしいものになれたかどうか自信がありません。「土の有機物研究に携わって」

    発表の直前に、4番目に発表をされる北大の先生の講演要旨を見て驚きました。私が発表の中で触れようと思っていた「生」という字と「土」という字の成り立ちについて、その先生も説明しておられたからです。しかし、私もすでにパワーポイントと原稿を用意していましたのでそのまま発表させて頂きました。

    また、今日の発表者4名の中で私を含めて3名の発表者が土壌の炭素貯留機能の大切さに触れていました。「土」、「生命」、「有機物」が重要なキーワードであったことに改めて気づかされました。

    私は、今年の2月にはIRRI を、3月にはハンブルク大学の土壌学研究所、ゲーテインスティチュートでドイツ語研修を4ヶ月受けたブレーメン、ドイツ留学中に一度訪れたことがあるオランダワーゲニンゲンの世界土壌博物館などを訪れてきました。私のポスドク時代の思い出の地をめぐってのセンチメンタルジャーニーのような旅行でした。お世話になった恩師たちはすでに天国に召されてしまいましたが、かつて一緒に研究をした仲間たちが迎えてくれました。

    Visit to IRRI
    Travel to Arnhem and Wageningen
    Travel to Bremen
    Travel to Hamburg

    それらの訪問の中で、かつて自分が関わった研究が継続されていないことを知ったことは、時の流れとはいえ寂しい気持ちを覚えました。

    IRRI では稲わらの土壌への還元に関する長期試験やアゾラの施用試験が中止されていました。圃場を使っての長期連用試験はIRRI にとっても重荷になっていたようです。中止の理由は、稲わらを連用しても土壌有機物含量が増加していなかったこと、地球温暖化ガスの発生というデメリットがあること、化学肥料の普及により肥料分を稲わらや緑肥でまかなう必要がなくなったことなどが挙げられます。土壌中に蓄積した炭素の全量を正当に評価したのかどうか疑問に思う点もありましたが、やめてしまった今となっては何を言ってもしかたありません。圃場を案内してくれた係の人は、試験地の水質が悪くて信頼できるデータが得られないのでやめることになったと言っていましたが、それが決定的な理由であったかどうかはわかりません。

    ハンブルク大学では、かつて私が研究に従事していた土壌年代決定や安定同位体分析の実験室は無くなっていました。かつての同僚は在籍していたのですが、理学部物理学研究室出身という異色の研究者なので、研究所の中で主流になれず、機器更新なども後回しにされて、実験室の閉鎖を余儀なくされたようです。

    どちらの場合も、環境に関わる研究は重視されて拡充されてきましたが、地味でセンセーショナルな結果を出しにくい課題は整理されてしまったようです。

    個々の研究者は、独創的で新しいことにチャレンジして、どんどん論文を書かないと評価されませんから、悠長な課題に取り組む人は少なくなっていきます。 昇進と生活がかかっていますし、自由競争の世界ですからなんとも言い難い問題です。

    しかし、個人の裁量に任せてよい研究と、より高い見識に立って、研究所、学会、国家などの大きな組織によって維持されるべき研究課題があると思います。

    これからの北海道の土壌肥料学はどのように進むべきかという質問を受けましたが、現場の問題に詳しくない私には具体的な回答を出すことは困難です。

    農業も有限な資源に依存した産業なので、方法を間違えると資源の枯渇をもたらしかねません。私が研究してきた土壌有機物や土壌そのものも同様です。

    土や環境に配慮した農業や生活様式への転換が現状と比べて負担になるようなとらえかたもあるかもしれませんが、逆に、農産物の品質向上や農地の持続性をもたらし、また人間にとっては精神的、健康的により豊かな生活につながるということを強調していかなくてはなりません。

    輪作、休閑、緑肥栽培、減肥や無肥料栽培、減耕起や無耕起栽培、農耕地への有機物施用など、土地や土壌に優しい農法、収量よりも品質や栄養価の向上を目指した農法がこれから求められていくでしょう。土壌肥料学もそのような農業をサポートしていかなくてはならないと思います。

    ポスター発表の会場で、以前御世話になった北農試の研究員の方から、北農試が長年管理してきた美唄の湿原が、国の管理から手放されることになったとお聞きしました。

    私も以前この湿原を訪れ、研究資料を採取させて頂いたので、大変残念な気持ちです。何か自然公園のような形で残すことはできないものでしょうか?

    かつて石狩平野中に広がっていた湿原の最後の痕跡なので、なくなってしまうことは個人的にも大変残念ですし、貴重な自然遺産が失われるということは、北海道にとっても大きな損失だと思います。

    私自身の発表の良し悪しはさておきながら、大変意義深いシンポジウムであったと思います。

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3匹の熊の冒険


    11月30日から12月1日にかけて、帯広市の郊外で熊の足跡がみつかったと報道されました。わずかばかりの情報から熊の足跡を推理してみたいと思います。私になじみの深い地名等は『』で囲んであります。(全てフィクションです。)


    11月29日夜 冬眠前に腹ごしらえをしようと思った熊の親子3匹が「帯広岳」付近の山から出てきました。「帯広川」沿いに歩き始め、「八千代牧場」や「上帯広」付近を通過し、川沿いに市街地の方向に向けて北上しました。

    11月30日未明 西21条南2丁目付近でおいしそうな匂いがするので、川から上がりそこに向かいました。そこは「川西農協の倉庫」でした。中にはジャガイモや長イモ、豆類などおいしいものがたくさん入っているのでしょうが、建物もしっかりしているし、扉も閉まっているので、中に入れませんでした。しばらくうろつきまわりましたが、結局あきらめて、帯広川沿いに川をさかのぼり始めました。あたりは車の通りも多くなり、恐怖を感じたためです。

    11月30日8時頃 帯広川を戻っているうちに支流の「つつじが丘川」に入りこみました。すると子供たちの声が聞こえたので、川から上がってのぞいてみると、そこは「つつじが丘小学校」でした。早めに登校してきた子供たちが遊んでいましたが、子供たちの一人と目が合ったのですぐに退散して川に戻りました。

    11月30日8時30分頃、再び帯広川に戻り、川を少しさかのぼると、第3柏林台川という小さな支流がありましたので、そちらの方に進んでいきました。熊の親子はまもなく「帯広の森」の西の端に入りこみました。そこから東に向かい、西23条、22条、21条はずっと森の中を通過し、「もりの山」の下を通り、西21条南6条付近で斜面を登りました。


    西23条、22条、21条南5丁目付近の帯広の森の様子 2017年10月28日, 2017


    11月30日9時30分頃、「帯広の森の運動公園」に近づきましたが、人の気配がするので、「帯広国際センター」の入り口付近から、また帯広の森に入りました。

    11月30日10時30分頃、「自衛隊十勝飛行場」を左に見ながら南下し、「はぐくーむ」の東を通り、空港南町の畑を通り、「大空町」を南に見ながら、「売買川」にたどり着きました。

    11月30日11時30分頃、売買川の川岸をたどりしばらく歩いたあとで、売買川を横切りました。そこは「畜大の農場」の一番南の端付近でした。売買川では小さいけれどニジマスを捕まえて食べることができました。また、川沿いの森のなかではスズメバチの巣をみつけました。蜂は寒さのため皆死んでしまっていたようですが、巣を壊してみると、まだ幼虫が生きていましたので、皆で喜んで食べました。

    機関庫川、売買川、札内川(10月上旬の風景)


    11月30日12時頃、「帯広火葬場」の北付近で「畜大の畑」を出ました。畑にデントコーンの取り残しが落ちていたので多少食べることができました。道を渡って畑に入ると、崖の下には町が見えました。「清流4丁目」というところです。崖の下の「機関庫川」まで降りましたが、町に入るのは避けて畑の中を南に向かいました。人にみつかるといけないので、しばらく機関庫川沿いの藪のなかに隠れていました。

    11月30日16時30分頃、「川西神社」の西側を通り、畑の中をさらに南に向かいましたが、「高規格道路」が見えてきました。これはまずいと思い、東に向かいました。畑の中には、まだ出荷されていない甜菜が残っていたので、これも食べることができました。「甘くてとてもおいしかった!」

    川西神社から高規格道路までの中間 2017年11月25日


    11月30日17時頃、国道には車がたくさん走っており、危ないと思いましたが、「ギャラリーウッドサウンド」付近に森があったので、急いで国道を渡り、森に入りました。森を抜けるとそこは「札内川の堤防」でした。あとは、「札内川の河畔林」の中を通り、無事に山に帰ることができました。めでたし。めでたし。



    ——— おことわり ———

    この「おはなし」は全て私の想像の産物です。

    このたびの帯広の熊報道で、唯一の目撃情報は、つつじが丘小学校の児童による「くまのような動物を見た。」という話だけです。熊の足跡も西21条南1丁目の倉庫付近と清流の里を見下ろす台地の上の畑の2箇所でみつかったとのことですが、熊かどうか確定はしていないようです。 本当に熊が来たのなら、もっと多くの目撃情報やたくさんの足跡がみつかっても良いはずです。

    私の「おはなし」が人騒がせなものになったとしたら、大変申し訳なく思います。しかし、このような想像をさせてくれるような森や川が帯広市に残っていることは素晴らしいことと思います。

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Norton によるパソコントラブル


    この1ヶ月ほど、Mac もWindowsも調子が悪くて、パソコンでの作業ができず、ホームページも更新できませんでした。その原因を考えてみると、ノートンインターネットセキュリティのトラブルによるらしいと思われました。私は今年の5月の連休に家族用も含めて5台の端末にノートンインターネットセキュリティソフトをインストールしました。その後、起こったことについて書いておきます。


    1) Windows パソコン(Sony VAIO)の場合

    今年の8月頃、パソコンの不調がこうじてクラッシュしました。そのため、VAIO Care の機能によって購入時の状態Windows 8.0 にまで戻し、その後Windows 8.1 にアップデートしました。Microsoft Office 他様々なソフトも再インストールが必要でした。

    再び、11月頃からパソコンの動作が非常に遅くなり、頻繁にフリーズするようになりました。12月頃から、さらに「体験版の使用期限が終了しました。」、「ライセンスキーエラー このサブスクリプションでインストールできる数を超えました。」というアラームが出るようになりました。

    いずれも、私には身に覚えのないアラームです。ノートンサポートにチャットで問い合わせしようとしましたが、忙しいようで応答してくれませんでした。そこでノートンアカウントのホームページを参照したところ、追加の請求はないので体験版をアクティブ化すれば良いというような説明がありましたので、体験版の「アクティブ化」を行ったところ、パソコンの動作は回復しました。

    ライセンスキーエラーは、私の過失によるものではなく、ノートンの機能のエラーによるものです。そのことによって、顧客のパソコンを耐え難いほど遅くしたり、フリーズさせたりするのは、もってのほかと思います。

    Noronは導入後今までパソコンにトラブルをもたらしただけのように思います。


    2) Mac (MacBookPro 2011 late モデル) の場合

    今年の11月下旬から12月上旬にかけて、ノートンによるMac のクリーン操作をノートンからのアドバイスに従い2回行いましたが、写真の数が多すぎたためか、2回とも失敗し完了できませんでした。

    12月12日に、Mac で iCloud の写真ライブラリーを見ていたところ、突然スクリーンが暗転しました。回復方法がわからなかったので強制終了しましたが、回復はしませんでした。

    その後、MacOS の回復を2回、MacOSの再インストールをそれぞれ2回ずつ繰り返し、その度に写真の操作をしている時にクラッシュしました。2回目の再インストールのあと、十分に時間をおいてから操作したところ、Mac は回復しているようですが、今もときどきフリーズが起こります。

    この場合もノートンの機能エラーによって引き起こされたトラブルと思います。

    この問題の解決のため、写真の枚数が多すぎることが原因かもしれないと勘違いし、iPad 上からiCloud に保存してあった古い写真をたくさん削除しましたが、写真の枚数が問題ではなく、MacOS 上の写真のプログラムがクリーン操作の際に破壊されたことが原因だったようです。

    Nortonの導入後、Windowsパソコンは半年間、Mac は1ヶ月間トラブルに見舞われて使い物になりませんでした。

    Norton はパソコンを外部からの脅威から守るのがその仕事でしょうが、その仕事がパソコン本来の機能を妨げるようでは困ると思います。


    3) その後:

    Mac はOS El Capitan を再インストールした後も、写真(iCloud) を見るとハングアップする現象が頻繁に起きましたので、MacOS をさらに High Sierra にアップグレードしました。その結果、Mac はかなり安定してきましたが、写真(iCloud)の操作に伴うハングアップはまだときどき起こりました。


     Mac については、6年使ったことでもあり、不安定要因もあるので、近日中に更新することにしました。その後 Mac には「写真ライブラリの修復ツール」があることを知りました。option と command を押しながら写真app を起動すると、ライブラリーを修復するかどうか聞いてきます。この修復ツールを実行したところ、修復は完了したようです。Mac 上で修復を行った後、その結果をiCloud に戻すので時間はかなりかかりました。データの移行前に写真ライブラリを修復できてよかったと思います。


     Windows パソコン(SONY-VAIO)は一時回復し、Web の閲覧やオフィスでの作業など通常に稼働していたのですが、再び調子が悪くなり、「ディスクのスキャンおよび修復をしています。」というメッセージが現れるようになり、いったん立ち上がってもすぐにハングアップするので、PCのリフレッシュという操作を行いました。OSを一旦8.0 に戻し、そこから再び8.1 にしなくてはならないのですが、途中で必要な更新プログラムの構成に何度も失敗し、8.1 に戻すことができませんでした。Windows-PC については、回復が望めないのであきらめようと思います。このVAIO は2013年の6月に購入したので、4年と7ヶ月使用したことになりますが、つい半年ほど前までMacよりも速く稼働していたものが、突然壊れてしまうのは不思議に思います。たぶんハードウェアは壊れておらず、中のプログラムが混乱していることと思います。Windows 10にアップグレードしたらどうだろうとも思いましたが、Mac を使ってWeb でVAIO の説明を見ると、Windows 8.1 が起動して、すべてのWindows update と VAIO update をアップデートしたあとでないとWindows 10 をインストールできないと書いてありますので、どうしようもない状態です。


     現在のSONY-VAIO の前にもSONY-VAIO を使用していました。そのパソコンも5年くらい使用してから、ハードディスクから異音が聞こえ始め、これは危ないと思い、現在のVAIO を購入して、データを移行しましたが、その後すぐにクラッシュして使えなくなってしまいました。パソコンの寿命は5年くらいなのでしょうか?

    4) その後(続き):

    SONY VAIO は、その後パソコンのデータを全部消去してから、購入時の状態に戻すという方法でWidows 8.0 が動くようにし、さらにWidows 8.1 まで戻すことができました。ノートンによるバックアップもあったのですが、ファイルを元に戻すことによって再びクラッシュしても困ると思い、バックアップからの復元はしませんでした。購入したソフトなどは、CDや認証番号があるので、それらをもう一度インストールし直しました。データは主にDropbox の中にあるので、Dropbox さえインストールすればアクセスできます。このようにして、再びSONY-VAIO は稼働しはじめたのですが、1週間くらいのちに再びクラッシュしました。「Kernel data in page error 」とか、「ドライブのスキャンおよび修復中」などが始まりました。なぜでしょうか?やはり5年くらいで使えなくなるように時限爆弾でも仕込んであるのでしょうか?


     Mac については、一旦修復作業が終わったのちも、起動に失敗することが多くなりました。 新しいMac mini が届いたので、このMac mini をセットアップすることにしました。Mac には移行アシスタントというソフトがあって、古いMac やそのバックアップ(Time Machine) からデータやソフトを移すことができます。しかし、Time Machine HDD についていたケーブルを調べると、Firewire 800 という形式のもので、新しいMac mini には接続するためのポートがついていませんでした。したがってパソコン本体からのデータ移行しか選択肢がないのですが、古いMacbook Pro では、移行アシスタント自体が途中でハングアップしてしまいました。そこで、Time machine によって古いマックのOS とデータを再び復旧させ、それから移行アシスタントを使うことにしました。データの復旧と移行作業だけで恐ろしく長い時間、約24時間を要しましたが、なんとか新しいMac mini へのデータ移行に成功しました。新しいMac にソフトを移すと、それぞれ正規の利用者であるかの認証手続きが必要になります。その結果、困ったことに、在職中に大学でインストールしたOffice が使えなくなってしまいました。ライセンスは大学のものだからです。Windows (Sony VAIO) パソコンの方にもOffice は入っており、こちらのライセンスは大学のものではないので使えますが、Windows が再び不調になってしまったので、Mac 用のOffice も購入しなくてはならないかもしれません。



Norton-trouble

    写真の説明

    左上の写真: Mac のデスクトップ画面が2つに割れている。(12月20日)

    左下の写真: MacOS の復旧作業。この作業では写真のトラブルは復旧せず、その後MacOS の再インストールが必要であった。(12月15日)

    右上の写真: Windows のデスクトップ画面が青くなりフリーズしている。(11月24日)

    右下の写真: Windows のフリーズ画面。(12月12日)


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役に立たないということ


    作家の遠藤周作氏は、氏の多数の作品を通じて、「役に立たないこと」、「無力なこと」についてずっと考え続けてきました。このことを直接のテーマとして取り扱っている「イエスの生涯」の中から、少し引用してみたいと思います。 遠藤周作文学全集第9巻からの引用です。


    234ページ 
    愛の神、神の愛 —— それを語るのはやさしい。しかしそれを現実に証することは最も困難なことである。なぜなら「愛」は多くの場合、現実には無力だからだ。現実は神の不在か、神の沈黙か、神の怒りを暗示するだけで、そのどこに「愛」がかくれているのか、我々を途方に暮れさせるだけだからだ。

    312ページ
    だが我々は知っている。このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿されていることを。そしてやがて触れねばならぬ「復活」の意味も、この「何もできぬこと」、「無力であること」をぬきにしては考えられぬことを。そしてキリスト者になるということは、この地上で「無力であること」に自分を賭けることから始まるのであるということを。

    333ページ
    次に彼ら(イエスの弟子たち)は当然こう思った。 イエスを神はなぜ助けないのか、なぜあの苦しみに沈黙を守り、あの死の苦悶にも目をつぶっておられたのか。

    341ページ
    イエスは彼の苦痛、彼の死に対して沈黙を守り続けている神に対しても、詩篇22のダビデの歌から始まり、その31に続く全面的信頼の言葉をつぶやきながら息を引きとったのである。

    以下の部分は本を図書館に返却してしまったためページがわかりません。(私の感想込みで書いています。)

    弟子たちは全員、イエスのことを、その死の直前まで、現生(現世)における救い主であると信じていたようである。

    弟子たちの気持ち:「人間は愛より今は効果あることが欲しいのです。現実に役にたつことしか願わぬのです。それが人間なのです。」

    彼ら(奇跡や癒し、さらにはローマによるユダヤ人支配からの解放を求めてイエスのもとに集まってきた弟子や民衆)の目には、イエスはふたたび現実に対し「無力な男」、「役に立たぬ者」、「何もできぬ人」に映り始めた。

    そして多くの弟子たちがイエスのもとを去り、最終的にはユダの裏切りのみならず、ペテロによるイエスの否定にもつながった。

    「神頼み」、「ご利益」という言葉に象徴されるように、現代の多くの宗教においても、人間はギブアンドテイクを期待しているようです。

    しかし、本来の神と人間の関係はそうではないのだということを、遠藤氏は訴えたかったのでしょう。

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黒ボク土についての疑問


    黒ボク土は火山灰の降灰地域に広く分布している。北海道十勝地方の黒ボク土はその良い例である。

    北海道の黒ボク土はアロフェンに富み、多量の暗色腐植を含んでいる。
    アロフェンの表面は酸化アルミニウムの八面体層に覆われていることから、アルミニウムと腐植物質が結合して安定化され、それによって腐植が黒くなるという考えがある。

    私が学生の頃は、黒ボク土は火山灰地に特有な土であるという考え方が一般的であった。
    しかしその後、火山から遠い地域にも黒ボク土が分布していることがわかった。

    これらの活火山から遠い地域では広域火山灰の影響を受けているという説がある。
    反証として、広域火山灰は日本列島の広範な地域に降灰しているが、その中で黒ボク土が分布している地域は非常に限られている。

    広域火山灰は降灰した後に多くの年代が経過しているので、その後の侵食や流亡によって低地や急峻な丘陵地には残っていない。残っているのは安定な台地面であり黒ボク土が一般的に分布する地形面と一致しているが、台地であれば必ず黒ボク土が存在するというわけではない。他にも灰色台地土や赤黄色土など台地特有の土壌がある。

    また、広域火山灰もさまざまなものがあるが、黒ボク土が発達しているのは1万年よりも若い土壌のみであり、2万年以上古い広域火山灰の上には黒ボク土は生成していない。

    また、広域火山灰からもアロフェンは生成するはずであるが、火山から遠い地域の黒ボク土にはアロフェンがあまり含まれておらず、活性なアルミニウムイオンの含量が多い。この活性なアルミニウムイオンによって腐植物質が安定化され暗色の腐植になると考えられている。
    この活性なアルミニウムイオンは何に由来するものだろうか?

    他方、チェルノーゼム土壌にも暗色の腐植が多量に含まれることから、アロフェンや活性なアルミニウムイオンは暗色・黒色の腐植物質が生成するために不可欠な物質ではない。

    同じく大陸からの風成塵(黄土・レス)が暗色腐植の形成に影響しているという説がある。大陸に分布するチェルノーズム土壌はレスの上に発達した土壌である。しかし広域火山灰と同様に、風成塵は日本中を覆っているにもかかわらず黒ボク土の分布している地域はその一部に過ぎない。

    黒ボク土の生成には草本植生が影響しているという説がある。

    また野焼きなどの人の活動が影響しているという説がある。約1万年前に氷河時代が終わり、人間の活動(狩猟、農業、森林伐採や草地への火入れ)が活発になってきたことと、その頃から黒ボク土が生成しはじめていることは符合している。

    しかし北海道の十勝平野、根釧平野、網走地方には広大な面積で黒ボク土がひろがっているが、これらの土地がつい100年ほど前に開拓されるまでは、大部分は草原ではなく森林地帯だったのではないだろうか。

    黒ボク土が生成したメカニズムとしてはさまざまな要因が考えられているが、そのどの要因も単独で黒ボク土の生成を説明することはできない。

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帯広畜産大学、北見工大、小樽商大の経営統合について


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    今朝(5月30日)の北海道新聞1面に3国立大統合22年4月と発表されました。学内説明会の翌日というのは早すぎないですか?ようするに学長理事会は経営者、一般の教職員は従業員ないし労働者ということで、経営に口出しすることはできないのですね。

    経営効率化で生まれた予算や人員を各大学が研究教育分野に集中させることで競争力を高めるためとのことです。
    私が学んだ名古屋大学と岐阜大の間でも運営法人の統合に向けて協議が進められているそうです。

    私が学んだ頃の大学と今の大学の比較してみました。
    昔は授業料が安かったので、ほとんど親のすねをかじらなくても勉強できました。ただし私はポスドクを5年以上していたので、奨学金を全額返還しなくてはなりませんでしたが、自分の努力で勉学できたという自負があります。

    しかし今では学費が高いので、勉強を続けられなくなる学生がいます。奨学金も利子付きなので、借りた学生には卒業後も長年大きな負担となります。
    昔は産学共同や軍学共同には反対していました。今は産学共同によって研究費を稼ぐように勧められています。軍学共同も最近順次垣根が取り払われています。

    昔は学部・学科の名前がわかりやすかったと思います。しかし今では実体がわからない名前、カタカナや和製英語をつけた名前が氾濫しています。

    昔は真実、平和、民主主義、学問と思想信条の自由などが擁護されていました。

    戦前これらのことが国家権力によって蹂躙されたことへの反省から警察は特別な理由が無い限り大学内に入れませんでした。
    今の大学研究の第一の目的は「役にたつこと」、「もうかること」、「国の方針に従うこと」であり、昔大事にされたことは今では毛嫌いされています。

    昔は教授会がありました。そして教授会は権威のあるもので、大学の意思決定機関でした。しかし私が教授に昇任してから数年で教授会はなくなってしまいました。

    今では上意下逹によって運営が進められています。

    昔は学長は大学構成員の選挙によって選ばれていました。

    今では、文部省の意向を反映する一部の上部組織によって選ばれています。学部構成員は口出しをできません。多少でも民主的手続きを経て学長を選ぶと文部省から認可されない恐れがあります。

    その他、昔と今では大きく違っていることがさまざまあります。大学の中身は全く変わってしまいました。別にこれは世界的な傾向ではなく、ヨーロッパの大学の多くはまだ平和、民主主義、学問と思想信条の自由を守る砦として機能しています。

    大学を退職した身で今頃このようなことをぼやいてもどうしようもありませんが、今後の成り行きが気になります。

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岡崎高校22回生(1970年3月卒)同年会に出席して


daigaku_tougou


    2018年6月2日に名古屋で岡崎高校22回生(1970年3月卒)同年会があったので出席してきました。
    幹事の皆さんによる行き届いた準備のおかげで、大変楽しくみのり多い会となりました。
    最初に物故者を偲んで黙祷を行いました。卒業生の5%ほどが既に亡くなっていることに驚きました。
    2年前にも岡崎市で同年会が行われ、これにも出席しましたので、顔を覚えている人もだいぶいましたが、48年ぶりに会った人はなかなか思い出せない場合もありました。

    私は最も遠方から参加するからということで、最初に挨拶を依頼されました。そこで、高校を卒業してから今までの私の足跡を紹介することができました。
    会は13時から16時30分までと、結構長い時間開催されていたのですが、その後さらに二次会、三次会まで参加し、夜の9時半ころ解散となりました。

    私は名古屋駅の近くのホテルを予約してあったので、無事に着いてホテルで休むことができました。

    私は次の日に名古屋国際空港(セントレア)、新千歳空港、JR石勝線経由で帰ってきました。

    妻も偶然、中学校卒業生の同年会が私と同じ日にあり、そちらの方に出席していました。妻の同年会の方は温泉で1泊できるものでした。

    妻はさらにもう1日、名古屋在住の家族のもとで過ごしてから、6月4日に帯広に帰ってきました。

    昔の友達に会うということは大切なことだなと思いました。

    帰宅後に式次第と名簿を読み返してみると、かつての高校時代の友達の顔も次第に思い出されてきて、せっかくの機会にもっとたくさんの人とお話しすべきだったと反省することしきりでした。

    式次第(名簿は省略してあります)と私の挨拶を下記の pdf にしました。

    興味ある方は見てください。


岡崎高校22回生同年会式次第 pdf


岡崎高校22回生同年会あいさつ(筒木) pdf



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The fifth year anniversary of my homepage.
ホームページ5周年。



     My homepage “Time Traveller”
    

http://timetraveler.html.xdomain.jp


     is celebrating the fifth year anniversary in June, 2018.

    “Traveller” is not a mis-spelling. It is in “King’s English” used in England.

     My first teacher of English in the middle school age preferred “King’s English” and advised us to purchase the dictionary in “King’s English”.

     He was an old retired man, having a private English class for the children in the local community for a very low tutor fee.

     However, English education in Japan soon shifted to “American English”. I am using American words to avoid the confusion now. For the memory of my first experience, I just used “Traveller” in the title of my homepage.

     My English is not good, because I do not have an experience of even visiting USA.

     I have been in the Philippines for two years and a half and in Germany for another one and a half year for my post-doctoral studies in the early 1980’s. There, I was influenced by various styles of English: Philippine, Indian, Ceylon, Bangladesh, Pakistan, Chinese, Korean, German styles and so on. Everyone had his/her own style English.

     So, I do not worry about the styles of English.

     I have accumulated too many articles and photos in my homepage.

     Last year, I experienced a problem in the performance of my HTML editor and FTP software.

    I finally understood that I have put too many files in one folder. My server company also advises me to transfer my contents to their paid server, which is much faster, larger, safer, and performative.

     After my retirement from my university, I may not upload any important or useful contents. I am now uploading the matter in my daily life and hobby.

     I just want to extend you, what I feel nice and beautiful. So, anyway, I will be happy if you visit my homepage further when you have time.



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政府による今後の科学技術戦略の素案について



     6月3日、NHK News web によれば、政府は今後の科学技術戦略の素案を発表しました。

     その目標としては、(1) 2025年までIT関連の人材を毎年、数十万人規模で育成・採用すること、

     (2) 若手研究者に重点的に研究費を配分するとともに、大学の給与体系を成果主義に改め、東京大学など16の有力大学に占める40歳未満の教員の割合を2023年度までに3割以上に増やすことなどが掲げられています。

    以下のpdf文書はこの素案に対する私の意見を述べたものです。

政府による今後の科学技術政策の素案について pdf




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天災と戦争



     北海道胆振東部地震による死者数は、9月11日に最後の行方不明者が発見されて41人となりました。ほとんどが厚真町とその周辺の地域に住んでおられた方たちです。
     心より御冥福をお祈り申し上げます。

Outbreak of gigantic earthquake in Hokkaido just after the typhoon No.21 left.
台風21号が去った翌日に北海道胆振東部地震が発生。
......2018.9.08



    しかし、これだけの大地震のもとで、死者数が41人にとどまったということは、一面奇跡的なことでもあったと思います。

     札幌でも土地や道路、建物に対する地震の被害はかなりありましたが、地震の発生が深夜であったため、都市に人々が集中しておらず、交通機関も動き出す前で、人命にかかわる事故を最小限にとどめることができたものと思います。

     この地震に先立って日本を縦断し著しい被害を残した台風21号でも、死者の数は全国で9名であったとのことです。台風は巨大でしたが、被害を最小限にするための対策が講じられるとともに、人々の事前の心構えができていたため、死亡事故の発生を抑制できたのではないでしょうか。

     しかし地震は台風と異なり、全く突然やってくるので、対策も心構えも持ちようがありません。

     このたび日本は続けざまに恐ろしい規模の天災に見舞われたのですが、考えてみると、天災よりももっと恐ろしいものがあるなと思いました。

     それは「戦争」であり「人間」自身です。

     人間は、「国家」、「民族」、「宗教」、「自由主義・社会主義」など、自己と個人を超越する大義名分を掲げられると、容易に「戦争」を正当化してしまいます。

     日本は第2次世界大戦で中国をはじめとするアジアの各国の人々の多数の命を奪うと同時に、国内ではアメリカによる全国各都市の空爆や広島・長崎の原爆によって50万人以上の一般市民の命が奪われてきました。

     ともかく、天災で亡くなる人の人数の1万倍もの数の人々が一度に亡くなってしまうのが戦争です。

    日本人は戦争の不条理さを一番認識していなくてはならない国民のはずです。

     しかし今、日本では平和憲法が否定され、国家による戦争行為を肯定する憲法に変えられようとしています。

     また過去の日本の戦争を美化しようとする論調も活発です。

     日本を再び戦争に引きずりこむ確率が高いのは現在の「平和憲法」でしょうか、あるいは平和条項を書き換えた憲法でしょうか?

     私は、明らかに後者の方だと思います。周りの国々に脅威を与えるとともに、日本にとっても相手国にとっても、戦争行為を起こすことを正当化する口実となるからです。



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令和の意味すること。



     万葉集を紐解くよりは、まずは漢和辞典などで、それぞれの漢字の本来の意味を調べるべきではないでしょうか?

     もうかなり昔に買った漢和辞典ですが、旺文社漢和辞典〔第五版, 1993〕で、令と和の漢字の成り立ちを調べてみました。

     「令」

    人偏(ひとへん)に属する漢字だが、構成としては上のA に似た部分とその下の部分に分けられる。

     Aに似た部分は、集めるという意味を持つ(合や会も同じ)。下の部分は、人がひざまずいたさまをあらわし、上下の部分を合わせて、人を集めていいつける、いいつけの意を表す。

     また、神のお告げを聞いている様子を表し、逆らうことのできないものという意味もある。転じて『良い事』とも解釈されるようになった。


     「和」

    本字は部首と旁の位置が逆であった。さらに古字では禾ではなく會(会の古字)が使われていた。

     その意味は、「口」と、音を表す禾(か)すなわち「あわせる」意を示す「会」で、声を合わせて応じる意。ひいては、心を合わせる、「やわらぐ」意を表す。

     同漢和辞典の初版(旺文社、阿部吉雄編1964)によれば禾(か)は加わる意味も示すとのこと。


     「令」が使われている用語の例:

     命令、軍令、指令、発令、辞令、勅令、法令、政令、訓令、徴兵令、戒厳令、逮捕令状、司令官、朝令暮改、大統領令、解放令、統制令、箝口令、律令制、県令、令嬢、令息、令夫人など高貴な方の子息子女、巧言令色鮮仁。


    漢和辞典の説明によれば「令和」の読みかたは以下のようになる。

     「令により和す。」

     すなわち、人を集めていいつけ、人民は声を合わせてそれに応じること。


     万葉集から引いたというのは本来の意味を覆い隠すためのこじつけでしょう。

     民主主義を嫌う人たち、軍国主義や全体主義を志向する人たちにはぴったりの考えかたです。

     改憲を悲願とする現首相の意向をみごとに忖度(そんたく)した元号と言えるでしょう。


     あたかも麻生上皇と安倍天皇の時代を謳歌しているようです。


     世の中もマスコミも大政翼賛会状態になっていて空恐ろしい気がします。


追記(5月6日)

    憲法の日の安倍首相の談話から、首相が「令和」に込めた意図がますます明らかになったような気がします。

    「令」は安倍首相と保守勢力が作ろうとしている「改正憲法」なのです。

    今回の元号は安倍首相の強い主導権と影響力のもとに制定されたとのことです。

    現在天皇陛下でさえ制定に関与することができない元号を、時代のひと時に政権の頂点に立ったにすぎない首相が自分の意見を強く反映させて決めても良いものでしょうか?

    首相といえども、公務員として民に仕える者なのですから、元号の選定作業は政権から独立した専門委員会にまかせ、自分の意見や嗜好が元号の制定に影響を及ぼさないように極力配慮するのが本来あるべき姿だったのではないでしょうか?


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下呂で想ったこと。



   9月1日から3日まで国際稲研究所(IRRI)の同窓会が下呂温泉で行われたので参加してきました。帯広から下呂温泉にたどりつくためには1日では困難なので(可能ではありますが着くのが夜になってしまいます)、前日の8月31日に帯広をでて、岐阜市に泊まり、岐阜公園、金華山、アクア・トト・ぎふ(淡水魚水族館)を観光してから下呂に向かいました。参加者は私と同じくらいの年代からそれより7歳から8歳くらい年上の方達で、直接私とIRRIでの滞在期間が重なっていた方はお一人だけでしたが、皆さんからいろいろ有意義なお話を伺うことができました。私にとっても他の同窓生の方にとってもIRRI でのリサーチフェローやポスドクとしての経験は大変貴重なものであったことを再確認できました。


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   今回の参加者のうち2日目に高山観光をされた方達もおられました。その人たちによれば下呂より上流側に上呂という駅もあったそうです。そこで下呂温泉の「呂」は何を意味するかという話題になりました。お一人の方が「お風呂」の「呂」だろうと言われて皆納得しました。温泉が川沿いに湧き出ている様子を示すのにぴったりの漢字だと思いました。しかし漢和辞典を調べてみると「呂」は背骨をかたどった文字であるとのことで、何故かむらざとを意味するためにも用いられたようです。その後調べたところ、下呂の村は奈良時代頃から知られていて、最初は「下留、しものとまり」と呼ばれていたそうです。それがいつのまにか「下呂」に変わってきたとのことです。


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   「同窓会」の2日目、私は参加者のうち7名の方たちと一緒に、下呂温泉の町の中を散歩しながら合掌村を見学してきました。お互い年配者の集まりだったので、急がずのんびりとした散歩をしました。皆で一緒の散歩は宿の近くの食堂でお昼ご飯を食べたところで終了となりました。あとで合掌村のパンフレットを見たところ、合掌村には白川郷から移築された多くの建物があり、そのそれぞれで様々なテーマで展示が行われています。また地下道を渡って山側に行けば展望台もありました。私たちはそれらの3分の1くらいしか見てこなかったようです。


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   午前中からお昼まで参加者の方達と一緒に散歩をした後は夕食まで自由時間となりました。私以外の皆さんは宿でくつろがれたようですが、私はお風呂に入る前にもう少し下呂を探索しようと思いました。ガイドマップを見ると、合掌村よりもさらに奥の方に「縄文公園」という地名があったので、そこまで行ってこようと思いました。


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   道はかなり複雑で、道を間違えて途中引き返したり、公共施設で道を聞いたりしてやっと縄文公園に着きました。縄文公園内の博物館(下呂ふるさと歴史記念館)は休館日のため見ることができませんでしたが、公園内に再現された縄文人の家屋や、発掘時のまま保存された炉端のあとなどを見学することができました。説明板によれば、ここの峰一合遺跡では約5,800年前の縄文時代前期の竪穴住居群と約1,800年前の弥生時代後期の住居群が発掘されたそうです。はるか縄文時代前期からここで人々の生活が連綿として営み続けられてきたことに感銘を受けました。山と川の幸に恵まれ温泉の湧き出る土地は住みよく豊かな土地だったのでしょう。ここからさらに30分ほど足を延ばせば、森城跡展望台(城平見晴台)にも行けたようですが、そこまでは行きませんでした。


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   縄文公園を見学したあと、帰り道の途中にあった飛騨信貴山山王坊というお寺に立ち寄りました。お寺からは法螺貝の音がずっと聞こえていたのですが、私が着いたときにはもう吹いていませんでした。参道に2体がペアになった石仏がいくつも祀られていました。往路の道沿いにも50メートルおきくらいに同種の石仏が祀られていましたが、ここにはまとまってたくさんの石仏がありました。参道を進んだところに立派な獅子の形をした1対の狛犬がありました。そこから20段ほどの階段があり登り切るとお寺でした。階段の両脇には竹藪があり、竹が伸びきって道を塞ぐような状態でした。お寺の本堂の前の庭には七福神の像や黄金色の大日如来像などがありました。


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   お寺の本堂の脇を南側に進むと、下呂の街を見渡せる眺めの良い場所に出ました。そこには平和の塔がありました。塔の先頭の部分は鋭角の先端を持った刀が2枚背中側で向き合うような構造になっており、なぜか札幌の北海道百年記念塔と似ているような感じがしました。その下の基礎の部分は斜めの石の板が2枚向き合うような構造になっていました。合掌をかたどったものでしょうか?


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   平和の塔の横をさらに進むと、「回天」と書かれた石碑がありました。第2次世界大戦の末期に作られて使用された人間魚雷のことです。石碑の横には「回天」に搭乗して亡くなった方や、戦地に赴く途中で敵軍の攻撃によって海没してなくなられた方、訓練中に亡くなられた方など約150名の方達のお名前が刻んでありました。


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   旅行を終えて家に帰ったのちに調べてみたところ、人間魚雷「回天」を考案した黒木博司大尉が下呂市の出身であったためこの地に回天記念碑が建立されたとのことです。


   尊い命を捧げられた約150名もの若者については心より冥福を祈りますが、この碑が戦争美化のために用いられてはならないと思います。


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   戦争の末期には人命を軽視した無謀な戦略の下に何十万という日本戦士が、ニューギニア、ガダルカナル、ビルマ、フィリピン、中国満州で亡くなりました。弾薬装備の欠乏ばかりでなく、食料補給、医療医薬もない状態で、国から捨てられたような状態で亡くなっていったとのことです。また日本兵士が亡くなったばかりでなく、現地の住民や投降した敵軍兵士も日本軍の非人道的な扱いによって失わなくても済んだ尊い命を失っていきました。


   黒木博司大尉の思想に大きな影響を及ぼした人として平泉澄という国粋主義歴史学者がいます。この人は戦後戦犯として処遇されましたが、戦犯解除後も国粋主義の思想の歴史書を出版したり、日本会議の設立メンバーとなったのちに天命を全うしたとのことです。


   下呂の回天記念碑の裏面にもこの人による追悼文が書かれていたようです。私は裏に回らなかったので読んでいませんが、戦争を美化し、若者を戦争に駆り立てた人が追悼文を書くのはいかがなものでしょうか?


   過酷な戦争を推し進めた日本軍の司令官のうち戦後連合軍によって裁判の後に処刑された人も多いですが、盧溝橋事件、ビルマインパール作戦に関わった牟田口廉也、ノモンハン事件、ニューギニア、ガダルカナルの作戦に関わった辻政信など処罰を免れて戦後まで生き延びた人もいます。


   日本と同じく第2次世界大戦を推し進めて敗戦したドイツでも、ナチスによってドイツ民族の優位性を強調する国粋思想が戦争を推し進めるために援用されました。戦後このような国粋思想を拡めることはドイツでは禁止されています。


   日本ではこれに反して、どうしたものか戦争美化、国粋思想の美化の動きが活発です。世界情勢もいろいろ不安定な様相を呈してきましたが、日本は不安を増大させる側ではなく、あくまで平和を推し進める側であってほしいと思います。

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  散歩中に見た花と蛾。左上はベゴニア。右上はヤママユ。左下はタカサゴユリ。右下はコバンソウ。

  Flowers and a moth seen during the walk. Upper left: Begonia, upper right: Japanese silk moth (Antheraea yamamai), lower left: Formosa lily (Lilium formosanum), lower right: Briza maxima L.



"IRRI同窓会 - 下呂旅行記"



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ネアンデルタール人の脳について。



   いろいろな本をリレー形式で読んでいます。ある本を読んで、その中で興味を持ったことに関連した次の本を読んでいくという形式です。


   更科功氏の「絶滅の人類史」(NHK出版新書 2017)という本を読みました。


   その本によれば、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)の脳はホモ・サピエンス の脳よりも20%ほど大きかったそうです。


   ホモ・サピエンス がアフリカ大陸を出たのは6万8000年ほど前と推定されており、その頃のホモ・サピエンス 全体としての人口は1000家族程度だっただろうと推定されています。中東からヨーロッパにかけては40万年以上前にアフリカを出て他の大陸に拡散していたネアンデルタール人がホモ・サピエンス よりもたくさん住んでいたと思われます。ホモ・サピエンス はこのネアンデルタール人と交雑してその遺伝子を受け継ぎましたが、ネアンデルタール人そのものは4万年ほど前に絶滅してしまいました。


   ちなみに、ホモ・サピエンス は、アジア大陸に先に拡散していたデニソワ人という人種とも交雑しその遺伝子を受け継ぎましたが、デニソワ人も3万年ほど前に絶滅しています。


   ホモ・サピエンス は10万年ほど前にアフリカ大陸の西海岸地方で、祖先の人種ホモ・ハイデルベルゲンシスから新しい人種として進化しましたが、75000年から70000年ほど前に起こったスマトラ島トバ火山の大噴火の地球規模での影響によって人口を著しく減らしました。そのことによってホモ・サピエンス としての遺伝子が純化したという側面もあるでしょう。


   しかし、ホモ・サピエンス が全世界に拡散するかたわら、先輩人類としてのネアンデルタール人は何故絶滅してしまったのでしょうか?


   ホモ・サピエンス は、何かの面でネアンデルタール人よりも優れていたためと考えられています。その一つはホモ・サピエンス は言葉の能力が優れていたため、社会的あるいは共同的な行動をとることに長けていたということ、二つめは繁殖能力がネアンデルタール人よりも優れていたことが推察されています。社会的・共同的な行動でより効率的に狩をして、ネアンデルタール人の縄張りを侵略し、人口増加率も大きいことによってネアンデルタール人の生活圏を奪っていったのでしょう。


   しかしともかく、ネアンデルタール人はその大きな脳で何を考えていたのでしょうか?ホモ・サピエンス よりもずっと長い40万年以上という期間、ホモ・サピエンス の先輩の人類として生き続けてきましたが、その永続性を可能とするような知恵を持っていたのではないでしょうか?


   ホモ・サピエンス は人種として発足してからまだ10万年ほどしか経っていませんが、世界規模の戦争を起こし、地球規模の環境破壊を起こしていることを考えると、1000年あるいは100年先の未来さえ危ぶまれるような気がします。ネアンデルタール人はホモ・サピエンス の中にその遺伝子を残すことができましたが、ホモ・サピエンス にとっては、もうそのような後継の人種はいないのです。


   脳というものは非常にエネルギーを必要とする体組織であるそうです。必要でなければ脳は小さいほうがエネルギーの節約になるのです。ホモ・サピエンス はそのコミュニケーション能力によって、社会として必要な能力を多数の人間の中に分散させ、一人一人の脳は小さくても済むように進化したのかもしれません。


   するとネアンデルタール人の私達より20%大きな脳は現代の生活様式においては必要のないことを考えていたことになりますが、本当はとても大切なことを考えていたのではないかというような気がします。


   それにしても人間は最近他人の脳ばかりでなく、コンピュータの脳にも依存するようになってしまいました。ホモ・サピエンス の脳はますます小さくなっていくことでしょう。

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「新版 日本人になった祖先たち」を読んで。



   関裕二氏の、「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける(PHP新書 2019 3月)と、
   篠田謙一氏の、新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造(NHKブックス2019 3月) を読んだ感想を書きます。


   読んだ順番はこの順で、関氏は篠田氏の本を引用していますが、その旧版を引用しています。2つの本の出版の時期がほとんど同時であることから、仕方のないことでしょう。


   篠田氏らの研究成果が関氏の推論の科学的根拠となっています。


   1980年代以降、人類の足取りをDNAによって辿ることが可能になってきました。
   一つは細胞質中のミトコンドリアのDNAの突然変異部位を辿る方法です。ミトコンドリアは母親から遺伝されたもののみが残るので、母系の足取りを辿ることになります。
   もう一つはY染色体中のDNAの変異を辿るもので、これは男系の足取りを辿ることになります。技術的な制約からY染色体のDNAの解明が可能になったのはミトコンドリアのDNAの解明が可能になった時期よりもずっとあとでした。そのため、データ数としてはミトコンドリアDNAのデータの方がはるかにたくさん得られています。


   データの解析によれば、突然変異が起こる確率を考慮すると、ミトコンドリアの変化の足取りをさかのぼると、約20万年から15万年前の一人の女性にたどりつくことになるそうです。この女性をミトコンドリア・イブと呼びます。ホモ・サピエンス がホモ・ハイデルベルゲンシスから進化する直前くらいの年代に相当します。


   他方、Y染色体のDNAの変化からは、9万年(プラスマイナス2万年)ほど前の一人の男性にたどりつくことになります。ミトコンドリア・イブに対応させれば、この男性はY染色体アダムと呼ぶこともできます。こちらは、ホモサピエンス として分離したあとの人種に該当します。


   同じDNA組成をもつグループをハプログループと呼びますが、ミトコンドリアDNAのハプログループはY染色体DNAのハプログループの組成よりも複雑でたくさんあります。これはミトコンドリア・イブからの経過年代がY染色体アダムからの経過年代よりも長いことから当然のことです。


   ミトコンドリア・イブやY染色体アダムという表現は、その時代に一人の女性あるいは一人の男性しかいなかったという意味ではなく、長い人類の歴史の中の比較的短い時間のなかで特定の1種類のハプログループが優勢になり他のハプログループが淘汰されていった期間があったことを推察させます。そしてアフリカを出発した6万8000年前の時点でのY染色体のハプログループの組成は1種類であったと考えられています。


   しかし、その後現代に至るまでの長い期間のうちに、ミトコンドリアのDNAもY染色体のDNAもいくつもの突然変異を繰り返し、多数のハプログループに分化してきたのでしょう。


   さて、ホモ・サピエンス は、そのミトコンドリアおよびY染色体DNAのハプログループを多様に変化させながら世界中に拡散させてきたのですが、日本列島に住んでいる人々のハプログループはどのような特徴を示しているのでしょうか?


   ミトコンドリアDNAのハプログループに関していえば、それは非常に多様であるということです。その多様なハプログループが日本列島に至ったルートとしても、氷河時代にインドシナ半島沿岸にあったいわれるスンダランドから島伝いに北上してきたもの、大陸と朝鮮半島を経由してきたもの、北のカムチャッカ半島やサハリンを経由してきたものなど様々です。氷河時代にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移り住んだ人々と同じグループの一部も南下して日本列島にやってきました。そしてその各ルートを経由しての移動拡散も一度に起こったものではなく、何度も繰り返して波状に起こったようです。


   そして、日本列島におけるハプログループの分布の最大の特徴は、様々なハプログループが地域的な分布に多少の偏りはあるものの、温存されて共存しているということです。

   何故、そのようなことが可能になったかというと、これらの移動が石器時代や縄文時代に行われ、狩猟採集文明にあったことと、日本列島の複雑な地形と豊かな自然が様々な民族集団の共存を可能にしてきたためと考えられています。


   人類による大規模な戦争や他民族の征服は牧畜を含めた農業文明の発祥とともに始まったと言われています。食料の蓄えが戦争を可能にし、戦争の目的となってきたためです。より豊かな土地を求めての争いもあったでしょう。そのため、非常に古くから農業文明が栄えた中国大陸においては、ミトコンドリアDNAのハプログループも非常に単純だそうです。


   日本においても弥生時代以降に稲作技術を持つ人々が大陸から渡ってきたのですが、縄文時代からのDNAを引き継ぐ人々は弥生時代や古墳時代に移っても、このような稲作文明の急激な波及に抵抗し、それまでに自分たちが培ってきた縄文文明のなかにゆっくりと取り込んでいったと推定されています。稲作自体も、弥生時代から始まった大規模な水田稲作以前に、焼畑での陸稲の栽培は縄文時代から行われていたようです。


   Y染色体DNAのハプログループはミトコンドリアDNAのハプログループよりも種類が少ないですが、それでも様々なタイプが含まれています。非常に大きく分類して、日本大陸に住む人々のY染色体DNAのハプログループはC, D, O に属するものが主要です。

  Cグループはアジア、オセアニア、南北アメリカ大陸まで世界中の非常に幅広い地域に拡散しているハプログループですが、日本列島に分布するC型ハプログループのうち、C2の系統は沿海州の先住民族およびモンゴル民族と、C1aの系統はインドネシアを中心とする地域の人々と共通しています。すなわち、北と南の双方から日本に渡ってきたと考えられます。現在日本人男性の約10%がこのハプログループに属しています。

  Oグループには日本人男性の約50%が属していますが、これは朝鮮半島と中国華北地域と共通するグループO1b2と華北から華南地域に多いO2に分かれ、前者の割合の方が高いそうです。

  CおよびOグループとは対照的に、Dグループは非常に特殊なグループで日本列島と沖縄列島に住む人々はそのなかのD1a2という細区分に属しており、しかもその割合が全男性人口の約40%を占めています。不思議なことに、世界の他の地域でこれによく似たハプログループの割合が非常に高いのはチベットに住む人々です。


   チベットの民族の流れをくむ人々としては、ミャンマー の多数民族であるビルマ族が挙げられますが、ビルマ 族の人々のY染色体DNAについては上記の本には記載されていませんでした。


   Y染色体DNAのDハプログループがどのように日本まで移動してきたのかはわかりません。狭いルートを辿って移動してきたのか、あるいは大きく拡散したのちに中心部分が消滅したのかの2つの可能性が考えられますが、いずれにせよ、チベットと日本列島を隔てる広大な地域の中心には強大な中国の民族が栄えていたということです。チベットと日本列島は、チベットの場合には急峻な山岳地帯があり、日本の場合には海によって中国大陸から隔てられていたため、稀なY染色体の特徴が強大な集団によって飲み込まれずに持続できたと言えるでしょう。


   上記の2つの本によってわかったことは、日本には多様な民族が渡ってきて、それらが共存してきたことです。ホモ・サピエンス の大陸拡散の中で発生した様々なハプログループのうちかなりのものが、長い歴史のうちのいつの時代にか日本列島にたどり着き、それらが仲良くとまでは言わないまでも共存をゆるされてきたということです。第10代徳川将軍家治の生母のミトコンドリアDNA を分析したところ、北欧の先住民サアミと共通するハプログループ(Z3)に属していたとの例も紹介されていました。


   日本人は単一民族だとの主張がありますが、これは非常に新しい時代(明治維新以降)に、国民を中央集権的にとりまとめ、外国に対する戦争、とくに非常に近い関係にある外国に対してさえも戦争と侵略を行うために国民を動員する必要上考えられたイデオロギーであろうと思います。


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ミャンマー人と日本人の似ているところ。
Similarity between Myanmar and Japanese peoples.



   ミャンマー 人と日本人の間には不思議なことにいろいろ似たことがあります。


   どちらもはるか昔にチベットに住んでいた人たちに起源をもつのではないかということと関連していて、Y染色体のD型ハプログループがそのことを証明してくれるかもしれません。


   他には、例えばものを数える時に「指折り数える」というように、まず手を開いて、親指から順に内側に指を折りながら数えるような仕草および、納豆やお茶などの食物、吊り壁法という家の建て方、その他焼畑と関連した様々な文化などです。


   ミャンマー 語(特に最大民族であるビルマ族の言葉)では、「北」に該当する言葉は「大きな川」という意味も持っており、「南」に該当する言葉は「高い山」も意味するそうです。このことは、ミャンマーのビルマ族がかつて、ヒマラヤ山脈の北側に住んでいたことを示唆しています。

   これらのことについて、イェジン農業大学でお世話になった先生たちにメールで問い合わせてみたところ、方角を示す言葉についても、物の数え方についてもそのとおりだとの返事を頂きました。


   参考までにメールのやりとりを添付しておきます。


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[My question]


Dear Dr. E. P. W.,
Cc: Mrs. D. N. E. M. T.


   I am sure that you are fine and doing well in the fighting period against Corona virus disease.


   Some time ago, I have read in a book dealing with the history of Myanmar, that the word corresponding to “north” has the original meaning of “big river”, and the word for “south” has the meaning of “high mountain” in the language of Burma. Is it true?


   I have another question. When you count numbers by a hand and fingers, do you open your hand first and then fold your fingers inside starting from the thumb finger? Japanese also count numbers like that.


   I am sorry for disturbing you so often. Thank you for your help.



April 29, 2020 Kiyoshi Tsutsuki



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[Answer from Dr. E.P.W.]


Dear Sensei,


   Thank you very much for your wish. 


   No problem. You can ask any time and I will try to answer your questions as much as I can. 


   Sensei, I think the original meaning of North in language of Myanmar is frequency (e.g. 1st times, 2nd times, etc.), and the big River is the characteristic of North region.


   Also the meaning of South is mountain, only one word is enough to mention south in language of Myanmar.


   But it is needed to confirm by some people.


   The counting nature is the same like your manner.


   Hoping you to be safe and healthy.



   Best regards,



April 29, 2020 Dr. E.P.W.



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[My “Thank you” reply]


Dear Dr. E. P. W.,
Cc: Mrs. D. N. E. M. T.


   Thank you for your very interesting answer.


   I have been interested in the similarity in Myanmar and Japanese peoples with respect to culture, habits, food and even DNA.


   Have you ever heard that peoples of Myanmar and Japanese both have their roots in Tibet area?


   The area where a big river is flowing in the north and high mountains lies in the south may suggest the Tibet area.



April 29, 2020 Kiyoshi Tsutsuki



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[Reply from Dr. E.P.W.]


Dear Sensei,


   I am happy to hear from you.


   Sensei, in Buddha text, we can understand the roots of Myanmar and Japanese people.  


   Tibet can be one of our Buddhism literature. But I am sorry I didn't read it yet. I am sure you can explore that by searching in Buddhism literature written by English.


   Best regards,




April 29, 2020 Dr. E.P.W.



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福島原発処理水(トリチウム未処理水)の海洋投棄について考える。
Discussion on the marine disposal of treated (untreated for tritium) waste water from the ruined Fukushima Atomic Power Plant. (in Japanese)




   家の近くの川沿いや森の中を散歩していると、不法投棄されたゴミをよくみかけます。美しく気持ちよくあるべき環境を台無しにするような行いをどうしてするのだろうと情けない気持ちを新たにしました。最近、福島原発の汚染処理水の海洋放出を内閣が決定したとのことで、市民によるゴミ投棄が卑劣な行いであるとすれば、政府による放射性廃棄物の投棄はどうなのかと思いました。 そこで、畜大勤務時代からの長年の友人であるBさんとの対話に発展しましたので、ここに紹介したいと思います。
   数値の上付・下付などの表現が困難なので、以下はpdf文書にして掲載したいと思います。文中のAは私、Bは私の友人を示しています。



"トリチウムの海洋投棄について"




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プリンタインクの買い替えに際して思ったこと。
What I thought when I had to renew the ink cartridges for my printer.




   妻がそろそろ年賀状を印刷してというので、妻の分と私の分の図案を昨日のうちに作りました。去年の図案の中の画像だけ置き換えたものです。画像は今までに私が撮りためた写真の中からウサギが載っているものを探して使用しました。探す際には妻にも見てもらったのですが、パソコンの画像表示の遅さに妻は呆れていました。私が写真をたくさん撮りすぎたためではありますが、特にウサギが載っていた写真をドロップボックスに転送する際にサムネイルの転送だけうまくいっていなかったようです。今日はそれらのファイルを印刷するために、まずはプリンタ用のインクを買いに行きました。行く前にプリンタの会社のサイトで該当のインクを検索したところ、その型番のインクは発売終了になったと書いてありました。それではあとは店に残っている分しか買えないなと思い、とりあえずH家電店に行ってみたところ、そのインクはこの店でも他の支店でも在庫切れになっているとのことでした。それで今度はY家電店に行ったところそこでは買うことができました。今後購入はさらに困難になることと思い、値段は高いですが2箱買いました。家に帰ってパッケージを開けてみたところ、説明書きが入っており、このインクが仕様変更になり型番名も少し変わったとのことでした。それで古い型番のインクは発売終了だったわけです。とりあえずまだしばらくこのインクが買えるようで安心しました。インクが買えないとプリンタも買い替えなくてはならないからです。プリンタ自体は5、6年前?に型落ちのバーゲン品を買ったものなので、発売開始後の年数はだいぶ経っていることと思いますが。まだ普通に印刷できるので、故障するまでは使い続けたいと思います。でもいつかはこのインクも発売終了になるのでしょうね。
   年賀状ソフトも数年前のもので、もうサポートが終了したとのメッセージが表れます。難しい図案を作るわけでもないし宛名は手書きなので今のままで良いと思うのですが、宛名ファイルは今後バージョンアップしないと読み出せなくなるのでしょうか?プリンタの件も年賀状ソフトの件も経営戦略に翻弄されているようで残念です。というわけでとりとめもないことを書きました。年賀状の印刷は私の分と妻の分は終了しました。あとは宛名とメッセージをボチボチと書き進めれば年末までには終えることができるでしょう。インクもたっぷりあるので年末年始に帰省してくる息子や娘たちに頼まれても大丈夫です。

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IRRI同窓会の皆様へ近況報告。
How I have been getting along. My report to IRRI alumni.



H. S. 先生
IRRI同窓会の皆様


   2022・2023年末年始企画のお知らせを頂き有難うございました。
   皆様におかれましては変わりなくお元気にお過ごしのこととお喜び申し上げます。


   コロナ禍が始まってから、来年で4年目を迎えようとしています。 コロナ禍の規模を考えますと不幸にも身近な方が感染されて大変なあるいは悲しい経験をされた方々もいらっしゃることと思います。「収束」ないし「終息」という言葉に何度も期待をかけてきましたが、いつかは終わるに違いないという儚い望みだけが残っています。
   2019年の下呂での同窓会以降のことを、なるべく簡単に振り返ってみたいと思います。


   2020年の2月下旬から3月上旬にかけて、JICAの専門家としてミャンマーのYezin農業大学に派遣されました。2019年に続いて2回目でした。ちょうどコロナ禍が始まった頃で、出発の成田空港やトランジットのバンコックの空港では厳しい警戒が行われていました。ミャンマー国内ではまだ感染が報告されておらずそれほどの警戒感もなく、普通の暮らしをすることができました。途中の週末休日にはShan地方にも研修員たちと一緒に旅行することができ、大変楽しい思い出となりました。しかし、私の2週間の滞在中にコロナが世界的にますます深刻化し、JICAは私の次に来ることになっていた専門家の派遣を中止してしまいました。私のプロジェクトは5年計画の最終年に相当しており、次のプロジェクトも開始が予定されていたようですが、その後2021年の2月に起こった軍によるクーデターのため長期中断されています。私の研修を援助してくれた教員や講義を熱心に聴いてくれた若い教職員のなかにも軍事体制に反対して抗議活動を行なったため大学を解雇されてしまった人が数人います。コロナの終息と同様、ミャンマーにも再び平和と民主主義が復活してほしいと思います。
    2017年3月に帯広畜産大学の再雇用が終了して以降も別科の土壌作物栄養学と土壌作物栄養学実習を非常勤講師として担当していましたが、カリキュラムの改訂によりこれらの科目がなくなり、別科も学生定員が削減されて酪農部門のみの募集となったので、私の担当は2020年前期の実習を最後として終わることになりました。実習は圃場でのバレイショ栽培および小松菜ポット栽培による肥効試験、土壌断面調査、土壌分析、地形・土壌分布の観察などの内容を含み、一人で担当するのは大変ではありましたが、別科生の教育にとって重要な内容を担っていたと自負しています。コロナが深刻化していましたが、野外での実習なので「密」にならないように注意することで、「対面」で指導することができました。その後、引き継ぐ人もなく別科の教育内容が縮小されてしまったことは残念に思います。


   2020年の前期からは「入門化学」という新入生(農業高校卒業生)向けの科目を新たに担当することになりました。以前この科目を担当していた教員が何らかの都合で担当できなくなり、私に引き継がれたものです。3月になって急に依頼されたため開講は5月まで待ってもらいました。コロナの蔓延が深刻化していたので、講義はオンラインで行いました。この講義は2021年と2022年にも担当しました。2021年と2022年には受講学生の半数ずつが教室に来てもよいことになり、対面とオンラインの同時進行となりました。やはり学生の顔が見えた方が良かったです。2023年も依頼されれば引き受けるつもりですが、担当はまだ決まっていません。2020年に入学した学生は来年には4年生になりますが、在学期間の全てをコロナの制約の下で過ごすことになり、残念なことだと思います。
   2021年の4月からは、「日本種苗新聞」で「人新世を耕す」という連載記事を執筆しました。私の個人ホームページを見てくださった同新聞社の編集者から「緑肥」に関連した記事を書いてほしいとの依頼があり、連載が始まりました。1ヶ月に3回発行される新聞ですが、2022年8月までに36回の記事を書き、一応これで終了しました。他に書きたいことがあればいつでも掲載してくださるといわれていますが、今のところ新しいアイデアは浮かんでいません。私の個人ホームページにこの記事のpdfコピーを掲載しました。紙面そのままのコピーなので読みにくいと思いますが見ていただけましたらうれしく存じます。

"日本種苗新聞連載記事「人新世を耕す」 2021年4月1日から。10日ごと。
A series of articles published on "Nippon Shubyou Shimbun (Japan Seed News)" from April 1, 2021. Every 10 days. "


   コロナによる行動自粛のなか、帯広市図書館に2週間ごとに通い、本を借り出してきて、気ままな読書を続けています。上記の「人新世を耕す」の連載にあたっても、図書館の本は大変役にたちました。
   また2017年から帯広市の市民サークル「エゾリスの会」に入り、春から秋までは帯広の森の動植物の観察や森の管理育成作業に参加しています。エゾリス、鳥類、カエル、チョウなどと森の植物の定期観察を行っています。毎週の週末はこの活動に参加することが多いのですが、冬の間は活動の機会が少ないので退屈しています。以前はオリンパスのTG-2やTG-5などのコンパクトデジカメだけで写真を撮っていたのですが、昨年オリンパスOM-D EM5 というミラーレスカメラを買い、今年はEM1を中古で買い足しました。カメラは標準域のズームと望遠ズーム、そしてマクロレンズの3種類を持っています。これらのカメラとレンズを交互に持ち出して、家の周辺の景色や動植物を撮って楽しんでいます。行動範囲は自転車で行ける範囲内です。撮った写真は上記の個人ホームページの近況欄やインスタグラム(ktsutsuki) やFacebook にもアップロードしています。Facebookは友人のみへの公開としていますので興味のある方は友達申請をお願いします。


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ミャンマー軍事クーデターから2年。Two years have passed since the military coup in Myanmar.


   2023年2月1日コメント。


   2021年2月1日にミャンマーで国軍によるクーデターが起こってから、今日で2年目となる。    私は2019年と2020年に2週間ずつミャンマーのイェジン農業大学を訪問して土壌学と気候変動に関連する講義と研修を行い、多くの教職員や学生・院生と友達になった。その人たちの中で私のコーディネーターも含め少なからぬ人たちが、政府への不服従を理由に大学を追われた。職は追われずとも、不自由で堅苦しい大学生活を沈黙しながら送っている教職員も多いことと思う。大学人ばかりでなく、民主主義と人権を求めるミャンマー国民が依然として困難な生活を続けている。



   このようななかで、日本政府は問題の解決にどれほど貢献してきただろうか。日本政府は国軍ともNLDなどの民主勢力とも独自のパイプを持っていると称し、国軍への批判は行なってこなかった。民主勢力とのパイプは本当にあるのかどうかわからぬ細々としたものであり、ボランティアによる貢献に任せられている。ミャンマー国民の民主主義や人権を積極的に擁護するための行動を日本政府はこの2年間とってこなかった。

   日本政府と経済界は、ミャンマーを「アジア最後のフロンティア」、すなわち経済開発協力の対象としてしかみなしてこなかった。そのなかで、国軍との独自のパイプとは、国軍関連者が経営するミャンマー企業に金を流すことによって、見返りに有利な取引きを達成しようとするものであった。その結果国軍に資金が流れることによって、ミャンマー国民にその圧政がかけられることになっても無関心な立場をとらざるを得なかった。



   いわば、日本政府もミャンマー国軍もいわば同じ穴のムジナなので、強い批判はできないのである。日本は本当に「民主国家」と言えるのだろうか?



   Two years have passed since the military coup occurred in Myanmar on the 1st February 2021.

   I had opportunities to teach soil science and climate change at the Yezin Agricultural University (YAU in Naypyidaw, Myanmar) two weeks each in 2019 and 2020, and could have many friends among the teaching staffs and students. However, after the coup, some of my friends should have to leave the university because they participated in the Civil Disobedience Movement. Even if not purged from the university, many staffs should keep silence and endure the inconvenient and difficult academic life. Not only the university people, citizens in Myanmar who is seeking for the freedom and human rights are continuing the hard life.



   Under such circumstances, how Japanese government contributed to solve the problem in Myanmar? Japanese government and conservative politicians insisted that they have contact pipes both to the military government of Myanmar and to the democratic party of Myanmar, and they can contribute to fix the problem. Japan side have never criticized the Myanmar military people strongly in these two years.

   The connection pipe of Japanese government with the democratic party was very narrow and weak and Japanese government have not taken any activity to support the democracy and human right of Myanmar people. The tasks have been entrusted to the people of volunteer people.



   Japanese government and economic people have deemed Myanmar as an economic partner and the object of economic development. They have said that “Myanmar is the last frontier in Asia”.


   The strong pipe between the Myanmar military government and Japan meant that the Myanmar enterprises owned by the Myanmar military people get collateral money from Japanese enterprises, and in return for it Japan can get great profit from the economic activity in Myanmar. The Myanmar military government can oppress the Myanmar people using the money obtained from Japan. Japan should have to behave indifferent attitude to the result of their economic activity. In another word, they were all part of the same gang.


   Can Japan proudly insist that she is a fair democratic country?


   ----Praying ---for---Myanmar!-----------------------

   2023年2月3日追加コメント。

   またミャンマーの話題になりますが、クーデーター2周年にあたる2月1日には、EUを始めとする各国の高レベル政府代表者によって、ミャンマー国軍の圧政を憂慮し解決を要望する共同声明が発表されました。


   この共同声明に賛同したのは、以下の国々です。”The European Union, and the Foreign Ministers of Albania, Armenia, Australia, Bosnia and Herzegovina, Canada, the Federated States of Micronesia, Georgia, Ghana, Iceland, Liechtenstein, Montenegro, New Zealand, North Macedonia, Norway, the Republic of Korea, the Republic of the Marshall Islands, the Republic of Palau, Serbia, Switzerland, Ukraine, the United Kingdom and the United States.”

   EU, アメリカ合衆国、英国、カナダ、オーストラリア、スイス、ノルウェー、ニュージーランド、韓国などの先進国に混じって、現在ロシアとの戦禍に苦しんでいるウクライナ、過去の民族戦争で酷い目にあったボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビアなどの国名も見られます。



   ミャンマーの隣国のアセアン(ASEAN)諸国はこの声明には加わっていませんが、ASEANは既に独自に「5項目合意」というものをミャンマー軍政に対して要求しているので、今回新たな声明はしなかったものと思います。



   他方、中国、ロシア、日本などは2月1日にあたってなんらコメントは発表していないようです。



   ミャンマーの情勢に対するそれぞれの国家の態度表明は高度に政治的なものなので解釈が難しいと思いますが、少なくとも中国、ロシア、日本はミャンマーの軍事政権よりの立場に立っているのでなんらの声明も発表しなかったものと思います。



   ミャンマーの今後の成り行きで軍事政権が弱まることはありえないので、今後の日本の国益を考えれば軍事政権によりそった態度を示しておいたほうが良いということだと思います。



   要するに日本には「正義」、「理想」、「平和と民主主義」、国軍の暴政に苦しむミャンマー国民に対する思いやりを主張し表明する志は無いということで、国民の目からは悲しく恥ずかしいことのように思えます。


   My additional comment on 3. February 2023.

   On 1. Feburuary, 2023. a joint statement was announced by the High Representative on behalf of the European Union, and the Foreign Ministers of Albania, Armenia, Australia, Bosnia and Herzegovina, Canada, the Federated States of Micronesia, Georgia, Ghana, Iceland, Liechtenstein, Montenegro, New Zealand, North Macedonia, Norway, the Republic of Korea, the Republic of the Marshall Islands, the Republic of Palau, Serbia, Switzerland, Ukraine, the United Kingdom and the United States, on the two year anniversary of the military coup in Myanmar.


   Among the developed countries, such as EU, USA, UK, Canada, Australia, Switzerland, Norway, New Zealand and Korea, Ukraine which is now attacked by Russia, and other countries which have experienced the miserable war between the folks such as Bosnia and Herzegovina, Montenegro, Serbia were also on the list of joint statement.

   ASEAN countries, which neighbors Myanmar, are not on the list. However, they have already requested in cooperation “5 item agreements” to the Myanmar military government.



   China, Russia and Japan did not make any statement on the occasion of the 2 years memorial day of the coup d’état by the Myanmar military power.



   Maybe the statements by the each government should be a highly political matter. However, I think, China, Russia, and Japan are standing for the side of Military government of Myanmar.



   Especially, Japan assumes that the military power of Myanmar will not fade in the future, and, therefore, it is more profitable to stand for the military side.



   In conclusion, Japan has no intention to express the standpoint of “Justice”, “Lofty Ideals”, “Peace and democracy” and can not express a word of sympathy to the people of Myanmar.



   I am very sad and ashamed for it.




   2021年2月16日のコメント。

   Simply, what is the standpoint of Japanese government?
 The world is watching also Japan.


   16カ国の在ミャンマー大使がミャンマーのクーデター政権に対して抗議声明を発表しましたが、日本の名前は見られません。日本の軍事政権に対する態度はどうなのだろう?日本が軍事政権に抗議するとミャンマーに対する中国の影響力が強まるからという説明も読んだことがありますが、そうなのだろうか?

   日本は長年にわたってNe Win にはじまる軍事政権を支持してきたし、最近も閣僚がミャンマーを訪問するときはアウンサンスーチーさんにも会うが、国軍の代表ミン・アウン・フラインにも会ってきたそうです。(2020年8月24日茂木外務大臣のミャンマー訪問。日本はミャンマー国軍とも独自のパイプを持ち続けてきました。)お隣の国中国もクーデター政権に対して寛容な態度を示していますが、日本もお隣のことをどうのこうの批判できるような国ではないように思います。



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   Memory at YAU in 2019: (Upper) Visit to Uppatasanti Pagoda in Naypyidaw. (Lower) Soil survey practice in the YAU field.

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   Memory at YAU in 2019: (Upper) Visit to YAU Kyauksei outreach campus. (Lower) Buddha statue and pagoda in Kyausei.

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   Memory at YAU in 2019: (Upper) Preparing mini-soil-monolith. (Lower) After the closing ceremony.

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   Memory at YAU in 2020: (Upper) Soil profile survey in the field. (Lower) Visit to YAU Aungban outreach campus.

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   Memory at YAU in 2020: (Upper) In front of the Htem Sann cave. (Lower) After visiting the Swe Inn Tein pagoda in Inle lake.

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   Memory at YAU in 2020: At the closing ceremony in 2020.

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   Memory at YAU in 2020: (Upper) Mini-soil-monolith prepared by the trainees., (Lower) Soil profile in the YAU field.

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資源という言葉について。What is the meaning of the word, "Resource"?



   人は自然からの恵みを糧として生きてきた。
  他の野生動物も同じである。



   自然からの恵みは豊かなときもあり、足りないときもあった。
  しかしそれは自然まかせであった。



   人が自然から受け取り、あるいは奪った部分を自然は自らの力で再生してきた。
  しかし、ある時から人間は自然に深く関わり、自然の姿を変えて自らの生きる糧を得るようになった。



   道具による狩猟や作物栽培による農業がそれにあたる。
  道具による狩猟は、狩猟の能力を高めると同時に、狩猟対象となる野生動物の数の減少や絶滅をもたらした。
  土地を耕す農業では、土地の肥沃度の減退や土壌侵食、塩類集積をもたらし、次第に作物の生産性が減少し、長い年月の後には同じ場所での生産を続けられなくなり、他の新しい土地へと移動せざるを得なくなった。



   自然からそのままの状態で得られる食料および狩猟による獲物や農業生産による収穫物のことを人間は「食料資源」と呼んだ。
  これらの食料資源は、最初は無限に再生産されるように見受けられた。しかし、人間の力が大きくなるに伴い、次第にその再生産が困難になった。
  再生可能であった資源は再生困難あるいは再生不能の資源になったのである。



   燃料などのエネルギーとして、人間は長い間自然の樹木や草、泥炭、動物の糞などを利用してきた。これらは、人間の活動能力が小さいうちは、自然の力によって再生されてきた。しかし、人間の活動が活発化し、森林や草原が減少すると、これらのエネルギー資源も有限となった。



   人間は近年石炭、石油、天然ガス、ウランなどの地下埋蔵資源に依存するようになり、その結果、爆発的な人口増加がもたらされた。またその分布は地球上に偏って存在しており、それを獲得するために、国家どうしが争うようになった。
  しかし、これらの地下埋蔵資源は始めから有限であった。それらの採掘が進むと、さらなる採掘が困難になった。また、その利用に伴い、地球の環境が汚染され、人類の健康を蝕むようになった。



   人間は資源を利用して生きている。その利用の仕方は人間の文化である。文化の質によって、資源の永続性は異なってくる。資源を浪費する文化と資源を大切にする文化がある。



   人間自体も「資源」と呼ばれることがある。「人的資源」という言葉である。それは「労働力」を意味することもあり、知的能力を意味することもある。
  人間社会を動かしているのは「食料資源」や「エネルギー資源」ばかりでなく、人間の働きそのものが関わっているからである。



   「食料資源」や「エネルギー資源」を利用するのは個々の人間そのものであるが、「人的資源」を利用するのは個々の人間ではなく、人間の上に立つ会社や国家などの社会的な存在である。



   「人的資源」は再生産可能であろうか?それは平和な社会のもとでは量的に再生産可能である。しかし、個々の人間のレベルにまで立ち返ると、「人的資源」は再生産不可能なものである。すなわち「人」は再生産不可能な資源である。「資源」という言葉が人間に対して用いられると、「人権」をはじめとするその尊厳が損なわれる恐れがある。



   「人的資源」という言葉を用いる場合には、個々の人間の尊厳をその基盤として用いるべきである。



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「アイヌの世界に生きる」を読んで。After reading a book on the life of Ainu people.



   今朝、ゴミを出しに外に出たとき(8:00)の気温は-18.9℃でした。久しぶりに帯広らしい気温になりました。一日を通じて快晴でしたが強い北西の風が吹いていました。そのため、散歩はためらわれましたが、イトーヨーカドーまで歩き、バスで帰ってくることにしました。イトーヨーカドーまで歩いた時はちょうど小学生(豊成小学校)たちの下校時間でした。寒いのに毎日大変だなと思いました。私が住んでいる地域では通学する小学校として豊成小学校か川西小学校を選ぶことができるようになっています。川西小学校は農村部にある小さな小学校ですが、それなりに良いところもあると思います。また遠くて学区が広いためスクールバスが運行されています。豊成小学校は10年ほど前に移転して新築された小学校で児童数も多く、体育館や温水プールも含め各種の設備が充実しています。しかしスクールバスは無いため、私の住んでいる清流4丁目からは3キロ近く歩かなくてはなりません。通っている児童たちは毎日7時頃には家を出発しています。4丁目からは川西小学校に通っている児童の方が多いようです。



   イトーヨーカドーでは帰りのバスまで1時間くらいの時間があったのでもっぱら書店で時間を過ごしました。いろいろ面白そうな本があったのですが、全部買っていると大変なので2冊だけ選びました。先週この書店に来たときには、ふと目に留まった茅辺かのう著「アイヌの世界に生きる」(ちくま文庫)とその他1冊を買いました。家に帰って読んだところ、大変素晴らしい本だなと思いました。
  十勝本別に開拓に入った和人の家族から実質的に捨てられ命まで失いかけていた赤ん坊がアイヌの婦人に助けられその娘として育てられました。その赤ん坊が育ち、結婚し、たくさんの子供を育て老年に達したのですが、その人と彼女を育ててくれたアイヌのお母さんのことを記録に残してほしいと思い、茅辺さんがその仕事を引き受けたのです。



   茅辺さんという方も類い稀な人生を送った方で、戦後京都大学に初めて入学した女子学生でありながら、2年で退学し、その後東京に出て出版社で雑誌の編集をしながら労働運動に携わり、40歳近くになってからはその仕事もやめて北海道に来て、網走の水産加工工場の労働者や帯広の農家の住み込み労働者として農作業に携わりました。その後、阿寒湖のアイヌ工芸店で働き、その際にアイヌの婦人に助けられ育てられた婦人の生い立ちの記録を書く仕事を紹介されたのです。
  本を読んだところ、捨てられかけた和人の赤ちゃんを助けたのは、本別町のチエトイ地区に住んでいた清川ネウサルモンという人で、その人の名前は私も以前本別の食土の研究をしていた時に聞き知っていました。ネウサルモンさんに助けられた婦人は澤井トメノさんといい、その子供さんたちも含めて本別アイヌの文化伝承に貢献しておられます。
  本の内容は感動的なものなので、興味があれば読んでみられることをおすすめします。何気なく選んだ1冊でしたが、思わぬ宝物に出会えたような気がしました。著者の茅辺さんも京都大学に残ってそのまま卒業していれば、キャリアウーマンとして輝かしい人生を送られたことと思いますが、それなりに自分自身が納得できる別の人生を選ばれたのでしょう。このことについても考えさせられました。



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   イトーヨーカドーに行く途中の風景。道の左側の赤い屋根の建物は日甜の旧工場で現在は研究所として使われています。今日は大雪山方面の山もくっきりと見えました。写真の中央部にかろうじて写っています。(上)、 機関庫川沿いのケヤマハンノキとヤチダモ。(下)

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北海道・十勝の土地に根ざした教育者
---菊地晃二先生のご逝去を悼む。
Grieving over the death of Prof. Koji Kikuchi.
---The excellent educator rooted in Hokkaido and Tokachi.



   2023年1月6日に菊地晃二先生が逝去されました。


   菊地晃二先生は道立農試に31年間勤められたのち、1995年に母校帯広畜産大学土地資源利用学講座の教授として着任されました。それ以来先生には公私にわたり大変お世話になりましたが、先生のお名前はそれ以前から知っていました。

  名古屋大学での私の恩師熊田恭一先生はその著書「土壌環境」(1980)の結論部で菊地先生の「地力の区分」に関する考え方を紹介しておられました。地力は自然のままの地力(地力I)、環境条件を確立することによって発現する地力(地力II)、必要な養分の量および質を確保することによる地力(地力III)の3段階からなるというものです。1970年台、農業構造の急激な変化の中で、地力に関して多くの議論が行われましたが、菊地先生の考えは「地力は農業者の働きかけによって変化させ向上させることができる」というものであり、卓越したものでした。私も講義のなかで常にこの考えかたを紹介してきました。


   先生は畜大着任後、JICA帯広集団研修土壌診断コースのコースリーダーを定年まで勤められ、それまでの研修内容を現場での土壌調査を中心とするものに変え、十勝平野の段丘と土壌の関係、美瑛・富良野の地形と土壌の関係を現場で教えられました。先生は退職後も引き続き現場での土壌教育をかつての同僚の横井義雄氏や大淵清志氏の助けを借りながら続けてくださいました。先生は研修員との交流が楽しくてたまらないというご様子でした。

  北海道の農業や土壌のことをあまり知らない私を、先生は休日を利用して十勝、根釧、道央の各所に先生ご自身が運転する車に乗せて案内してくださいました。1999年日本土壌肥料学会北海道大会の土壌見学会準備のための土壌調査と試料採取でも常に同行させて頂き、土壌調査を教えて頂きました。先生は難しい土壌分類から説明するのではなく、地形と母材の違いに即して具体的に教えて頂けたので大変わかりやすかったです。

  先生は研究成果の執筆にも熱心で、長年にわたる御経験を「段丘土壌と土壌 十勝平野をどう活かすか」(2008)を始め、多数の著書に著されました。また先生は学生や後輩の研究者のことをいつも心配しておられました。先生から励まされた人は数知れないことと思います。

  菊地先生のご病状については心配していましたが、御逝去については日本ペドロジー学会からのメールで初めて知りました。大変お世話になった先生に御葬儀などで弔意を示すことができなかったことは残念ですが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

                    ペドロジスト  Vol.67, No.1 に投稿。


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「ラダック 懐かしい未来」を読んで---。
After reading a book entitled "Ancient Futures - Learning from Ladakh"
by Helena Norberg-Hodge.



   図書館から借りてきた本ですがヘレナ・ノーバーグ・ホッジ著「ラダック 懐かしい未来」という本を読みました。


   インド東カシミール地方の標高3000mから5000mの地域で、厳しい気候と痩せた土のもとでつつましくも豊かに暮らす人々の昔ながらの生活を紹介し、その生活が開発によって失われていく様子を紹介した本です。

  著者はスウェーデン人の女性で28歳の頃から16年間ラダックで暮らした人です。


   現代の生活様式から見れば「何もない」土地でも、人々は十分生きていけるだけの食料を得て、愛にあふれた家庭や村社会を築き、仏教をはじめいろいろな宗教を信じている人たちがいますが、それぞれに崇高な信仰心を持って暮らしていました。

  それが貨幣経済が入り、道路が整備され、観光客が溢れ、電気や水道が開通するとともに、昔ながらの生活や人間関係が失われるようになってきました。日本でも同様な変化が過去に起こってきたものと思いますが、開発・進歩と人間の幸福の関係について考えさせられました。

  別の話題ですが、12月5日は「世界土壌の日」です。定年退職して土壌の研究から退いた今ではどのように「土壌」に関わっていけば良いか考えさせられます。

  かつては土壌を採取して分析することによって土壌を見てきましたが、もうそのような関わり方はできません。自宅の庭の小さな畑を世話しながら良い土のあり方を考えるとか、森を歩きながら良い土とはなんだろうと考えていきたいと思います。

  ラダックの人々が厳しい気候と痩せた土地の上でも生活してきたことを考えると、絶対的な良い土というものは存在しないのではないかと思います。土の機能を損なわないような接し方をすれば、土はそこに暮らす人や生きものに必要なものを与えてくれます。要するに土の良い悪いを論じるよりも、どのように土に接するべきかを考えることが必要と思います。

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被爆者団体協議会のノーベル賞受賞に際して思うこと---。
My thoughts on the Nobel Prize winning of "Japan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers Organizations".



   この夏頃から、図書館でふと目にとまった林京子さんの作品を読み続けてきました。林さんは14歳のときに学徒動員で女学校から派遣されていた工場中で長崎の原爆に被曝し、他の人がほとんど亡くなったり重傷を負うなかで、偶然工場の壁の裏にいたおかげで生き延びることができた人です。その後、40歳くらいから沈黙していられなくなり、多数の小説を書いてこられました。被曝のことと、父親の仕事の関係で少女時代まで上海で育ったことなどが小説のテーマになっています。重い内容なので、次々に読み続けるのは辛くなるかもしれません。被曝の事実にばかりこだわっているとの批判も他の文学者からあったようです。86歳くらいで2017年に亡くなりましたが、何十万という被爆者のなかで奇跡的に長く生き延びることができた人の証言として貴重なものと思います。この度、日本被爆者団体協議会がノーベル賞を受賞しましたが、林さんが生きていればこのことを喜んだことと思います。


   しかし世界の情勢はそれほど甘くないと思います。核兵器を所持している国の指導者がいずれも独裁的で理性や博愛精神を感じられないことは深刻だと思います。日本の政治家もアメリカの「核」を抑止力とみなしてきました。被爆国でありながら、オーストリアやメキシコなどが中心となって2017年に国連で提議された核兵器禁止条約交渉に参加しませんでした。またアメリカのオバマ大統領が核の先制不使用政策を検討し、2016年5月にはアメリカの大統領としては初めて広島での平和記念式典に出席しましたが、安倍首相をはじめとする日本の権力者たちは、核の先制不使用政策には反対し続けてきました。オバマ大統領の任期があとわずかであったことと、その後トランプ大統領に政権が移ったことで、先制不使用政策は実現しませんでした。


   現在は世界中に核の抑止力が無い状態で、いつ核戦争が始まってもおかしくない状態ではないかと思います。日本国民は、核爆弾が爆発したあとに起こる地獄、および原発が爆発したあとに起こる地獄をどちらも経験したまれな国民です。核兵器を持っている国、日本のように他国の核兵器に依存している国が核戦争抑止力とみなしているのは自国民の生命そのものです。国民は人間の盾として人質にとられているようなものです。また、核兵器の使用を前提として戦争をしようとする国は、他国の国民の命の重さを軽んじているとしか考えられません。国家どうしの憎しみが高じたときには、相手の国民の命の重さにまでは考えが及ばなくなることと思います。広島と長崎への原爆の投下はそのことの実証です。


   被団協のノーベル賞受賞をひとつのきっかけとして、核兵器の廃絶を進めていかなくてはなりません。

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SNSの公正性について
On the fairness of SNS.



   イーロン・マスク氏がTwitterを買収してまず最初にしたことは、投稿の公正性を監視する部門を切り捨てることだった。今は”X”という媒体に代わっているが、”X”で流通する投稿はどれが公正なものであるかわからず、自分で判断しなくてはならない状態であると思う。これはまた世界一の資産家によるSNSメディアの乗っ取りである。E.M.氏は、投資に対する見返りがあるからこそTwitterの買収を行ったのであり、情報操作が自分の企業活動に利益をもたらすからに他ならない。その際、情報発信の公正性という基準は足かせになるので取り払ったのだろう。
   SNS でものを言おうという人は、どのような場所で発言するのかということにも注意しなくてはならないと思う。単純に利用者が多くて便利というだけでは、自分自身も悪意をはらんだシステムの中に取り込まれてしまうことになるだろう。
   Facebook はTwitter - X で行われたような投稿を野ばなしにする方針を取らず、投稿の公正性を守るためのシステムを維持してきたようである。私の投稿も誤判断によって削除されたことがあるが、少なくとも投稿を監視するシステムが働いていることを知らせてくれた。
   しかし、トランプ次期大統領からの圧力と恫喝によって、投稿の公正性を監視するシステムが取り払われることになった。
   現状でも怪しい投稿が蔓延しているが、これからはますます怪しい投稿が増えることと思う。
   兵庫県知事選挙にも見られたように、選挙活動にもこれからSNSが利用されていくことと思う。SNSの利用者はSNSからの情報に振り回されないように注意しなくてはならない。

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ミャンマーで3月28日に起きた大地震について
On the gigantic earthquake occurred on 28. March in Maynmar.


  A gigantic earthquake occurred in Myanmar on 28. March. I still have not heard of the safety of many of my friends in Myanmar on 3. April.
  I express my deep sympathy to my friends and the people in Myanmar who are affected by the gigantic earthquake today. I hope you are safe and recover from the damage quickly.
  I am anxious about my friends who are suffering from the calamity of gigantic earthquake in Myanmar. I wish all of you are safe, surviving and getting over the difficult situation.

Yezin_2019-2020

After completing all my lecture and practice in 2019 (above) and in 2020 (below).


Yezin_2019-2020-2

Handing out the certificate of completing the course in 2019 (above) and in 2020 (below).


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Field soil survey practice in 2020 (above) and in 2019 (below).


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Field soil survey practice in 2020 (above) and in 2019 (below).


Yezin_2019-2020-4

Field trip to Kyau-Se in 2019 (above), to Aung-Ban in 2020 (below).(


Hypocenter-distribution

Distribution of hypocenters in the world.


Sunda-plate%20.png

Tectonic plates in the South-east Asia. Sunda plate covers the central area in this map. Most of the earthquakes in Myanmar are occurring in the boundary area of Indian plate and Eurasian plate.


Sagaing_Fault.png

Slippage of Sagaing Fault between Mandalay and Nay-Pyi-Taw in Myanmar (reported by Geospatial Information Authority of Japan on April 2).

Sagaing(ザガイン)断層に沿って南北400km以上にわたって地殻変動が見られます。

断層を挟んで西側でおおむね北向き、東側でおおむね南向きの地殻変動が見られます。この地殻変動のパターンは地震のメカニズム(右横ずれ)と整合的です。

変動域では、断層を挟んで最大で6m程度の大きな食い違いが見られます。これは、地震に伴い断層が6mずれたことを意味すると考えられます。

国土地理院 2025年4月2日発表


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